リチャードジノリ 【インペロミストラル】 スープC/S 340cc 40%Off
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祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) ラッキーセブン 7客限定
通常30%Off 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 40%Off
強風を意味するミストラル 仏 伊 西 等の軍艦への命名は相応しいと思いますが ウェッジウッドや リチャードジノリが 華やかな黄色に ミストラルとは合点がいきません。ミストラルには 見事な という意味もありますので 見事な黄色とでもいうのでしょうか? いかように探しても 黄色に行き当たったのはこれぐらいです。
蘭 ミストラル
ミストラルは、フランス南東部に吹く地方風。アルプス山脈からローヌ河谷やデュランス川流域を吹いて加速度を増し、カマルグ周辺の地中海に吹き降ろす、寒冷で乾燥した北風である。ラングドック北東部平野からプロヴァンス、トゥーロン東部の間に影響を及ぼす風もミストラルであるが、強い西風と感じられる。この風はフランスの地中海沿岸全般に影響を与えており、しばしばコルス島とバレアレス諸島の間の地中海に突然嵐を引き起こす。
ミストラルとは南フランスのプロヴァンサル語から由来しており、「見事な」を意味する。また、隣接地域のイタリア北西部で吹く同じ風は、イタリア語でマエストラーレと呼ぶ。羅針方位では、北西を表す。ミストラルは常にカラリと晴れた新鮮な空気をもたらすので、プロヴァンスの気候をつくる重要な役割を担っている。特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。日中の平均速度は時速50kmに達し、夜間に著しく沈静化する。ミストラルは通常冬から春にかけて吹くが、全ての季節に発生する。時には丸一日から丸二日続き、数日間続くことも頻繁にあり、時には数週間以上続く。
イタリア北西部で発生したミストラルによる嵐
マルセイユ近くに吹くミストラル風中心部にあるシャトー・ディフは、アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の舞台
雷さんは 粋な方だよ 戸を閉めさせて 二人を濡らした通り雨 そうだ そうだ 全くだよ
「歌麿」:『大木の下の雨宿り』
一昔前の家には強風や強雨除けの雨戸がありました。雨戸を閉めるとお部屋は暗くなりました。
雷さんは 馬鹿なやつだよ おへそを狙うなんて 私なら3寸した狙う そうだ そうだ 全くだよ
風神雷神図屏風 国宝 (俵屋宗達)の雷神
風神雷神図とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画である。風神雷神を一対として扱う像容は古くから仏教美術において見られ、すでにカニシカ王統治下のクシャーナ朝 敦煌石窟の壁画で描かれている。日本では力士様に描かれている。
江戸時代後期の儒学者で詩人の管茶山の『筆のすさび』(1857年)
「雷臍を取るといふ事。雷の臍をとるといひて、小児などを警(いまし)むるは、雷震のときは俯伏(うつぶせ)するものは死せず、仰仆(あおむけ)するものはかならず死するによってなり」
「雷がへそを取る」 という言葉はもともと、雷がなって夕立がくると急に気温が下がり、お腹を冷やすおそれがあるので、裸でいる子供に着物を着せたことからおこった言葉。
「一姫二太郎」 一人目は胃腸が丈夫な女の子で子育ての経験を積んでおけば 二人目は胃腸の弱い男の子でも育てられる。金太郎さんの腹掛けは お腹を冷やさぬようにというものですが めんどくさがる男の子に「雷さんに おへそを取られるよ」と脅かし着せた。
「雷と月と日」 日本昔話
むかし、ある夏のこと 『お日さん』と『お月さん』と『雷さん』が、お伊勢参りの旅をすることになった。三人は仲良く旅を続けた。
やがて日も暮れたので、三人は宿に入った。お日さんとお月さんがお風呂から上がる頃には、雷さんはすっかり酔っ払っており、太鼓をたたいて大声で歌いながら踊りだした。そ うして騒ぐだけ騒いだ雷さんは酔いつぶれて眠ってしまった。雷さんは初めのうちは静かに眠っておったが、そのうち、布団が吹っ飛ぶような大イビキになった。眠れないお日さんとお月さんは布団をかぶって我慢をしていましたが、とうとう耐えられず お日さんが逃げ出し お月さんもそれについて、二人はまだ夜も開けないうちに雷さんを置いて宿を出発しました。
一 方の雷さんは夕方近くになって目を覚ましました。お日さんとお月さんが先に出発したと聞いた雷さんは「月日のたつのは早いもんだ。それなら儂は夕立としよう!」と、直ぐに二人の後を追った雷さんが去った後には、派手に稲光と夕立を残して立って行ったそうです。
この重厚感 あふれ ジノリを代表するシリーズは 20年前ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる歴史と伝統を買いました。現在ではコスト面から制作困難な手工芸品を 創業27周年謝恩価格でご提供
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
有るのが不思議なエナメル手工芸・廃盤品
黄 臙脂 緑 マッチ・コントラスト
手塗りのエナメルは 深い漆の質感を 呈します。
この時代 金彩を使わない 高級品(ドッチア窯の金ロゴ)は珍しいのですが この場合 手描きグリーンの太いポーダーと 手描き臙脂の太いラインは 黄色を 鮮烈に 引き立て 金を使わなくても 高級品としての 自信のある作者の意図が 十分窺えます。古い黄色は 年月を重ねると色褪せるのですが アンティック業者は 褪せたというと 値打ちが下がるので 月日に練れたと 古さを強調して 糊塗せねばならない黄色ですが どうですか この黄色は! 四半世紀を経て まだ この強烈な発色は!
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
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ソーサー絵 手工芸・把手面 ドッチア窯金ロゴ
リチャードジノリ 【 インペロミストラル 】 祝母の日フェア お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
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「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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蘭 ミストラル
ミストラルは、フランス南東部に吹く地方風。アルプス山脈からローヌ河谷やデュランス川流域を吹いて加速度を増し、カマルグ周辺の地中海に吹き降ろす、寒冷で乾燥した北風である。ラングドック北東部平野からプロヴァンス、トゥーロン東部の間に影響を及ぼす風もミストラルであるが、強い西風と感じられる。この風はフランスの地中海沿岸全般に影響を与えており、しばしばコルス島とバレアレス諸島の間の地中海に突然嵐を引き起こす。
ミストラルとは南フランスのプロヴァンサル語から由来しており、「見事な」を意味する。また、隣接地域のイタリア北西部で吹く同じ風は、イタリア語でマエストラーレと呼ぶ。羅針方位では、北西を表す。ミストラルは常にカラリと晴れた新鮮な空気をもたらすので、プロヴァンスの気候をつくる重要な役割を担っている。特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。日中の平均速度は時速50kmに達し、夜間に著しく沈静化する。ミストラルは通常冬から春にかけて吹くが、全ての季節に発生する。時には丸一日から丸二日続き、数日間続くことも頻繁にあり、時には数週間以上続く。
イタリア北西部で発生したミストラルによる嵐
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雷さんは 粋な方だよ 戸を閉めさせて 二人を濡らした通り雨 そうだ そうだ 全くだよ
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一昔前の家には強風や強雨除けの雨戸がありました。雨戸を閉めるとお部屋は暗くなりました。
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風神雷神図とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画である。風神雷神を一対として扱う像容は古くから仏教美術において見られ、すでにカニシカ王統治下のクシャーナ朝 敦煌石窟の壁画で描かれている。日本では力士様に描かれている。
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次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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