マイセン 【松竹梅柴垣鳥文・455110】 兼用C/S・582 40%Off
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通常30%Off 祝 体育の日記念フェア ( 本日~10/10) 40%Off
初代柿右衛門は柴垣でなく 松竹梅太湖石鳥文を描いております。
ついに見つけました 柴垣松竹梅鳥文。
柿右衛門様式 濁手赤絵柴垣松竹梅鳥文皿
色絵松竹梅鳥文輪花皿 マイセン 18世紀。 色絵松竹梅鳥文輪花皿 柿右衛門 江戸時代前期(出光美術館)
柿右衛門ほどの人でも 本家中国の名声にあやかって 太湖石にしております。考えるに この原画を描いたころの柿右衛門は まだあまり有名ではなかったのでしょうか?
東京国立博物館蔵 濁手柿右衛門 大壺
これは 矢張り太湖石に中国人で完全な中国写しのシノワズリです。本家中国製に錯覚を期待したのか それとも本家中国を超えたの自負でしょうか? 多分これらを本に より柿右衛門らしく写したのが赤絵柴垣松竹梅鳥文皿ではないでしょうか?へロルトも 最初は 松竹梅太湖石鳥文の柿右衛門写しにしておりましたが 後により高値で売れる柿右衛門らしく 太湖石を柴垣に変えたようです。最初の柿右衛門写しは 少し力み過ぎて 花葉枝鳥も綿密に大きく 反って 本家中国にも大きな影響を与え 洗練の極みともてはやされた 余白の美が失われておりますが 流石は 天才へロルト 柴垣に変えた頃には 余白の美を取り戻しております。ヘロルトは 権力欲に取りつかれた守銭奴でしたが 確かに審美眼は 天才の名に恥じません。彼は 最初期から太湖石をシノワズリに分類しておりましたのでより柿右衛門らしく石を 垣に変えたのです。
簡単版(鳥が簡単過ぎ) 代理店名 盆栽
ピカピカの 新品です。現品 即納
3人の天才ヨハンによる伝統の 復刻版
1)ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによる ヨーロッパ 初の ポースレーン
2)ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト原画
3)ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型 エンツゥィーステッドハンドル
ジャポネズリ 柿右衛門写し
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。やがて アウグスト強襲王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑んだ ヘロルトの 柿右衛門写しの出来栄えに 王は マイセンが 遂に 柿右衛門に並んだと ご満悦。王の満足するヘロルトの柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。時につれ ペインターたちは 余白の美・和風の作品を 生み出し 王達を楽しませました。
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ソーサー絵・カップ正面 反対面 把手面
マイセン 【 松竹梅柴垣鳥文・455110 】 祝 体育の日記念フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の炻器に変成し得たベトガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュタイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった アウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にありましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥っておりました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベトガーを とられまいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない 無聊に不慣れなベトガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え 実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いたドレスデンの 乙女の砦 ユングフェルン(ドレスデン市民が恐れる 乙女の砦 には 鋼鉄の女と呼ばれる 鋭い剣の腕を 振り回し 人をバラバラに切り刻む機械が 暗い洞穴にあるとか 噂されておりました。宮廷で失寵した者が 目隠しをされ この機械にむかって歩かされ 切り刻まれた肉塊は まだ温もりも冷めやらぬまま 床の落し戸から エルベ川に 投下されるとか・・・こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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