ウェッジウッド 【キングスブリッジ・壷ロゴ】 クリーマー L 30%Off
ウェッジウッド 【キングスブリッジ・壷ロゴ】 クリーマー L 30%Off
祝 新入学・新入社フェア ( 3/16~ 4/15) 3点限定
『大聖堂』は、1989年 ケン・フォレットによる歴史小説。キングズブリッジは実際のイングランドの町から名前をとっているが、作中のキングズブリッジは筆者の創作によるものである。12世紀中葉の史実を背景として、架空の町に建築される大聖堂を中心として展開される群像劇。ヘンリー1世の嫡子がホワイトシップの遭難で始まる無政府時代からカンタベリー大司教トマス・ベケットのヘンリー2世による暗殺という半世紀の間が描かれている。ロマネスク建築からゴシック建築へ移り変わる技術的な歴史も背景としている。ケン・フォレットのこの小説は 全世界で2,000万部を売り上げ、代表作となった。2010年に本作のテレビドラマが制作され、日本では2011年に放映されている。
ランス大聖堂(ゴシック) キングズブリッジ大聖堂・モデル
あらすじ 残り半分
大聖堂の建築はトムの息子のアルフレッドによって継続されることになった。アルフレッドは、リチャードへの馬と武具の購入をみかえりにジャックを慕うアリエナとの結婚にこぎつけた。ジャックはアリエナに対する思いを遂げるが 傷心の中でキングズブリッジから旅立った。アルフレッドをこばむアリエナは 妊娠したことに気付いたが隠し通す決心をする。
アルフレッドは、父のトムの設計を変え石造りの天井にしたが 重みに耐えられず崩壊 76人の村人が死亡し 大聖堂の建築は頓挫した。アルフレッドに 子を産んだアリエナは追い出され、父親のジャックを探しに大陸へ向かう。ジャックは、パリのサン・ドニの大聖堂の建築に関わり 最新型のリブ・ヴォールトと尖塔アーチをの建築法を修め、そこでアリエナと再会した。
ジャックは気温の変化で泣き出すマリア像を奇禍として、パリ市民からの大聖堂復興のに寄付を集め イングランドへ戻る旅をした。キングズブリッジに戻ったジャックは フィリップにマリア像と寄付金を見せ 自分を棟梁とする大聖堂の再建を認められた。アリエナとジャックの結婚は認められず、2人は公然と愛人関係になった。
リチャードは ジャックの石の防護壁を盾にウィリアム・ハムレイの再度襲撃を撃退し キングズブリッジの守備隊長になった。ウィリアムは若いエリザベスと結婚した。リチャードは 3年続く飢饉からキングズブリッジを襲う無法者を撃退し 彼らを部下に強い軍勢をなした。ウィリアム・ハムレイは ウォールランやリミジアスを味方に引き入れ 襲い来るリチャードの根城を突き止め襲う。リチャードは亡きモード女帝の息子であるヘンリーに出仕するためにノルマンディーへ向かった。
長い内戦は終わった。スティーブン王は地位を認められたが、その後継者はモード女帝の息子であるヘンリーとなり リチャードは念願の伯爵位を取り戻した。シャーリング伯領も取り戻すため アリエナは 城に潜り込むと、旧知であるウィリアムの妻で伯爵夫人エリザベスの協力を得て リチャードを城に乗りませ、制圧させた。
新たなる州長官がウォールランによってウィリアム・ハムレイに決まった。仕事のないアルフレッドはアリエナに金の無心にやってきたが断られると、アリエナを犯そうとした。 そこを弟の新伯爵であるリチャードアルフレッドに見つかり殺されてしまう。
逮捕を免れさすためにフィリップは リチャードに十字軍に参加させる。アルフレッドの死により、アリエナは法的にも独身に戻り、ジャックと結婚した。
フィリップはトム・ビルダーの捨てた息子のジョナサンを副院長とし、後継者と目していた。ウォールランは、ジョナサンはフィリップの実の息子であり、フィリップは姦淫の罪を犯していると嘘の告発をした。判事役はフィリップがキングズブリッジ修道院の分院から結果的に追い出したピーターであった。ジャックは、全てを知っている母のエリンを説得し、裁判でジョナサンの父親がトムであると証言させた。その後ウォールランは信用を失っていく。
やがて大聖堂は完成した。その頃、カンタベリー司教であるトマス・ベケットは即位したヘンリー2世と教会の権利に対して対立した。王の意を汲んだウィリアム・ハムレイはトマス・ベケットを襲撃し 衆人環視の中で殺した。フィリップは、トマス・ベケットを殉教者に仕立て上げ キリスト教世界に大きな影響を与え、イングランドでは聖務禁止の処置が取られ、ヘンリー2世は妥協せざるを得なかった。
シャーリング伯リチャードがエルサレムで亡くなった。彼には子供がなく、甥でジャックとアリエナの間の子供 トマスが新伯爵となった。トマスはウィリアム・ハムレイをトマス・ベケット殺害で逮捕して処刑した。トマスは統治者として優秀であり、アリエナは統治を息子に譲ってキングズブリッジに戻り、商売に専念した。
ウォールランは出世の道を失い、修道院で出直していた。そしてジャックはそのウォールランからホワイトシップ遭難の陰謀と父の死の原因を知らされた。
ヘンリー2世は改悛し、形ながらロンドン司教やキングズブリッジ司教であるフィリップをはじめとする司教や修道士たちに鞭打ちたれることになった。フィリップは、念願であった無制限の暴力が神の権威に屈する時に立ち会えたのであった。
カタラクト渓谷のキングス・ブリッジ
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
完全英国製 MADE IN ENGLAND 壷ロゴ
手の込んだ良いものを 少し。
原点から生まれた ブライトブルーラインに あしらわれた 紅い小花が キラリと光る シンプルながら 格調高き秀作
壷ロゴの キングスブリッジって ヴィンテージもよいとこですよね。
こんなヴィンテージの いいものがなぜ安いかって?
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
ウェッジウッド 【キングスブリッジ・壷ロゴ】 クリーマー L 30%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
壺ロゴ
ウェッジウッド 【 キングスブリッジ・壷ロゴ 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります
どの写真もクリックで拡大
1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミンスター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し 7年戦争の火蓋を切りました。鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しました。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレムの地に ジョサイアによって 生み出されました。ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり 右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。しかし 強い意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。この年 この地で行われていた 無釉黒色炻器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥炻器に同じ)。ジャスパーウェアの魁です。リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。彼の天分は 息子ジョサイアⅡ世に受け継がれ 脈々と生き続けました。エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。1582年 古代ローマ皇帝の墓所で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャスパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇りの象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いくつかの窯で 細々と試みられていました。一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。1795年頃 この軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。さらに1819年 現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(1780年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと 大幅に遅れることに なりました。しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず 1828年には 取りやめました。今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再チャレンジは 1878年の遅きになりました。やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイルドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターンブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。現在のパターンは 1965年発売)を 始 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しいファインボーンチャイナを 完成させました。余談になりますが ウェッジウッド家の 科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアの娘スザンナの子が チャールズ・ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)でも有名で 世に喧伝されました。
祝 新入学・新入社フェア ( 3/16~ 4/15) 3点限定
『大聖堂』は、1989年 ケン・フォレットによる歴史小説。キングズブリッジは実際のイングランドの町から名前をとっているが、作中のキングズブリッジは筆者の創作によるものである。12世紀中葉の史実を背景として、架空の町に建築される大聖堂を中心として展開される群像劇。ヘンリー1世の嫡子がホワイトシップの遭難で始まる無政府時代からカンタベリー大司教トマス・ベケットのヘンリー2世による暗殺という半世紀の間が描かれている。ロマネスク建築からゴシック建築へ移り変わる技術的な歴史も背景としている。ケン・フォレットのこの小説は 全世界で2,000万部を売り上げ、代表作となった。2010年に本作のテレビドラマが制作され、日本では2011年に放映されている。
ランス大聖堂(ゴシック) キングズブリッジ大聖堂・モデル
あらすじ 残り半分
大聖堂の建築はトムの息子のアルフレッドによって継続されることになった。アルフレッドは、リチャードへの馬と武具の購入をみかえりにジャックを慕うアリエナとの結婚にこぎつけた。ジャックはアリエナに対する思いを遂げるが 傷心の中でキングズブリッジから旅立った。アルフレッドをこばむアリエナは 妊娠したことに気付いたが隠し通す決心をする。
アルフレッドは、父のトムの設計を変え石造りの天井にしたが 重みに耐えられず崩壊 76人の村人が死亡し 大聖堂の建築は頓挫した。アルフレッドに 子を産んだアリエナは追い出され、父親のジャックを探しに大陸へ向かう。ジャックは、パリのサン・ドニの大聖堂の建築に関わり 最新型のリブ・ヴォールトと尖塔アーチをの建築法を修め、そこでアリエナと再会した。
ジャックは気温の変化で泣き出すマリア像を奇禍として、パリ市民からの大聖堂復興のに寄付を集め イングランドへ戻る旅をした。キングズブリッジに戻ったジャックは フィリップにマリア像と寄付金を見せ 自分を棟梁とする大聖堂の再建を認められた。アリエナとジャックの結婚は認められず、2人は公然と愛人関係になった。
リチャードは ジャックの石の防護壁を盾にウィリアム・ハムレイの再度襲撃を撃退し キングズブリッジの守備隊長になった。ウィリアムは若いエリザベスと結婚した。リチャードは 3年続く飢饉からキングズブリッジを襲う無法者を撃退し 彼らを部下に強い軍勢をなした。ウィリアム・ハムレイは ウォールランやリミジアスを味方に引き入れ 襲い来るリチャードの根城を突き止め襲う。リチャードは亡きモード女帝の息子であるヘンリーに出仕するためにノルマンディーへ向かった。
長い内戦は終わった。スティーブン王は地位を認められたが、その後継者はモード女帝の息子であるヘンリーとなり リチャードは念願の伯爵位を取り戻した。シャーリング伯領も取り戻すため アリエナは 城に潜り込むと、旧知であるウィリアムの妻で伯爵夫人エリザベスの協力を得て リチャードを城に乗りませ、制圧させた。
新たなる州長官がウォールランによってウィリアム・ハムレイに決まった。仕事のないアルフレッドはアリエナに金の無心にやってきたが断られると、アリエナを犯そうとした。 そこを弟の新伯爵であるリチャードアルフレッドに見つかり殺されてしまう。
逮捕を免れさすためにフィリップは リチャードに十字軍に参加させる。アルフレッドの死により、アリエナは法的にも独身に戻り、ジャックと結婚した。
フィリップはトム・ビルダーの捨てた息子のジョナサンを副院長とし、後継者と目していた。ウォールランは、ジョナサンはフィリップの実の息子であり、フィリップは姦淫の罪を犯していると嘘の告発をした。判事役はフィリップがキングズブリッジ修道院の分院から結果的に追い出したピーターであった。ジャックは、全てを知っている母のエリンを説得し、裁判でジョナサンの父親がトムであると証言させた。その後ウォールランは信用を失っていく。
やがて大聖堂は完成した。その頃、カンタベリー司教であるトマス・ベケットは即位したヘンリー2世と教会の権利に対して対立した。王の意を汲んだウィリアム・ハムレイはトマス・ベケットを襲撃し 衆人環視の中で殺した。フィリップは、トマス・ベケットを殉教者に仕立て上げ キリスト教世界に大きな影響を与え、イングランドでは聖務禁止の処置が取られ、ヘンリー2世は妥協せざるを得なかった。
シャーリング伯リチャードがエルサレムで亡くなった。彼には子供がなく、甥でジャックとアリエナの間の子供 トマスが新伯爵となった。トマスはウィリアム・ハムレイをトマス・ベケット殺害で逮捕して処刑した。トマスは統治者として優秀であり、アリエナは統治を息子に譲ってキングズブリッジに戻り、商売に専念した。
ウォールランは出世の道を失い、修道院で出直していた。そしてジャックはそのウォールランからホワイトシップ遭難の陰謀と父の死の原因を知らされた。
ヘンリー2世は改悛し、形ながらロンドン司教やキングズブリッジ司教であるフィリップをはじめとする司教や修道士たちに鞭打ちたれることになった。フィリップは、念願であった無制限の暴力が神の権威に屈する時に立ち会えたのであった。
カタラクト渓谷のキングス・ブリッジ
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
完全英国製 MADE IN ENGLAND 壷ロゴ
手の込んだ良いものを 少し。
原点から生まれた ブライトブルーラインに あしらわれた 紅い小花が キラリと光る シンプルながら 格調高き秀作
壷ロゴの キングスブリッジって ヴィンテージもよいとこですよね。
こんなヴィンテージの いいものがなぜ安いかって?
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
ウェッジウッド 【キングスブリッジ・壷ロゴ】 クリーマー L 30%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
壺ロゴ
ウェッジウッド 【 キングスブリッジ・壷ロゴ 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります
どの写真もクリックで拡大
1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミンスター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し 7年戦争の火蓋を切りました。鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しました。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレムの地に ジョサイアによって 生み出されました。ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり 右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。しかし 強い意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。この年 この地で行われていた 無釉黒色炻器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥炻器に同じ)。ジャスパーウェアの魁です。リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。彼の天分は 息子ジョサイアⅡ世に受け継がれ 脈々と生き続けました。エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。1582年 古代ローマ皇帝の墓所で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャスパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇りの象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いくつかの窯で 細々と試みられていました。一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。1795年頃 この軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。さらに1819年 現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(1780年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと 大幅に遅れることに なりました。しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず 1828年には 取りやめました。今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再チャレンジは 1878年の遅きになりました。やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイルドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターンブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。現在のパターンは 1965年発売)を 始 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しいファインボーンチャイナを 完成させました。余談になりますが ウェッジウッド家の 科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアの娘スザンナの子が チャールズ・ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)でも有名で 世に喧伝されました。
コメント
コメントの投稿
« ヘレンド 【ウィーンのバラ】 ティーC/S 25%Off l Home l リチャードジノリ 【カポデモンテ ホワイト】 ティーC/S ポセイドン 35%Off »