リチャードジノリ 【アガサブルーフラワー】 ポット 810cc 25%Off
リチャードジノリ 【アガサブルーフラワー】 ポット 810cc 25%Off
祝 ホワイトデイ・フェア ( 3/ 4~ 3/14) ラッキーセブン 7台限定
アガサ Agatha
個性的な色調を持つこのばらは、ガリカとしては珍しく仕立て方が難しい品種といえるでしょう。花付きはやや少なく、自立型の株立ちですので庭木のように仕立てたり、窓辺のポイントなどに。野趣味に富んだ印象で花芯が良く目立ち、スパイスを含むダマスク系の香があります。1818年頃から知られる、古い時代のガリカローズのひとつとして興味深い品種です。
アガサ インカルナータ Agathe Incarnata
ガリカ・ローズとダマスク・ローズの交配種とされ、ダマスク香を持っています。ガリカ・ローズに分類されてはいますが、花の雰囲気、トゲの多い枝ぶりなどむしろダマスクローズに近い印象を受けます。澄んだピンクとロゼットの花型が大変美しく、香りと一緒に楽しみたい品種です。
アガサと言えばこの人でしょう。
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(旧姓: ミラー 1890年 - 1976年)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。メアリ・ウェストマコット名の小説が6作品ある。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
アガサ燕子花(かきつばた)
在原業平朝臣 伊勢物語 第九段、東下り・その壱。 古今和歌集 羇旅歌 410
むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。
三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。
その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。
その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。
それを見て、ある人のいはく、「かきつばた といふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
からごろも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。
(昔男がいた。その男は、自分を(都にいても)役に立たない男だと思い込み、京にはおるまい、東国の方に、住むのに適当な国を見つけに行こうと思って出かけた。 以前から友としている人、一・二人といっしょに出かけた。(東国への)道を知っている人もなくて、迷いながら行った。三河の国・八橋というところに着いた。そこを八橋というのは、流れ行く川の水が蜘蛛の手足のように八つに分かれて流れているので、橋を八つ渡してある、それで八橋といったのである。その沢のほとりの木の蔭に(馬から)下りて腰を下ろし、干し飯(ほしいい)を食べた。その沢にかきつばたが、たいそう美しく咲いていた。
それを見て、ある人が言うには、「かきつばたという五文字を(それぞれの)句のはじめにおいて、旅の心を詠んでごらんなさい」といったので、詠んだ、
唐衣の着慣れたように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、 遥々やってきたこの旅を(しみじみと悲しく)思うことだと詠んだので、人々は皆、干し飯の上に涙を落として、(干し飯)がふやけてしまった。)
修辞 盛り沢山(折句 枕詞 掛詞 縁語 係り結び)の 万葉集とは真逆の歌。
いずれがアヤメかカキツバタ(美女の品定め 甲乙つけ難し)
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
姫妃の青(アガサ) 門外不出の王者の紫(バーガンディ)
コストアップに耐えられず 絵になる銘品も 廃盤に
アンティコシェープ
ルネッサンス期の 銀器のシェープから ロココ調に 生まれました。
お店でアガサブルーフラワーを 見たお客さんが言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレはよく お部屋の飾り絵として 買われます。
二代目 ジノリ侯のお眼にかない 二百数十年生き続けた 美術品です。それにしても 審美眼の権化 ポンパドール夫人命名の アガサブルーと 門外不出の王者の紫で描いた この名画を 美しいといわれる 貴方のお眼眼は 時空を超えて侯や夫人のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【アガサブルーフラワー】 ポット 810cc 25%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
反対面 取っ手面
リチャードジノリ 【 アガサブルーフラワー 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
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類稀な 美貌と知性の女性は 鄙に生まれながら 自らの運命に従い 皇帝の妃に。
生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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アガサ Agatha
個性的な色調を持つこのばらは、ガリカとしては珍しく仕立て方が難しい品種といえるでしょう。花付きはやや少なく、自立型の株立ちですので庭木のように仕立てたり、窓辺のポイントなどに。野趣味に富んだ印象で花芯が良く目立ち、スパイスを含むダマスク系の香があります。1818年頃から知られる、古い時代のガリカローズのひとつとして興味深い品種です。
アガサ インカルナータ Agathe Incarnata
ガリカ・ローズとダマスク・ローズの交配種とされ、ダマスク香を持っています。ガリカ・ローズに分類されてはいますが、花の雰囲気、トゲの多い枝ぶりなどむしろダマスクローズに近い印象を受けます。澄んだピンクとロゼットの花型が大変美しく、香りと一緒に楽しみたい品種です。
アガサと言えばこの人でしょう。
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(旧姓: ミラー 1890年 - 1976年)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。メアリ・ウェストマコット名の小説が6作品ある。
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アガサ燕子花(かきつばた)
在原業平朝臣 伊勢物語 第九段、東下り・その壱。 古今和歌集 羇旅歌 410
むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。
三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。
その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。
その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。
それを見て、ある人のいはく、「かきつばた といふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
からごろも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。
(昔男がいた。その男は、自分を(都にいても)役に立たない男だと思い込み、京にはおるまい、東国の方に、住むのに適当な国を見つけに行こうと思って出かけた。 以前から友としている人、一・二人といっしょに出かけた。(東国への)道を知っている人もなくて、迷いながら行った。三河の国・八橋というところに着いた。そこを八橋というのは、流れ行く川の水が蜘蛛の手足のように八つに分かれて流れているので、橋を八つ渡してある、それで八橋といったのである。その沢のほとりの木の蔭に(馬から)下りて腰を下ろし、干し飯(ほしいい)を食べた。その沢にかきつばたが、たいそう美しく咲いていた。
それを見て、ある人が言うには、「かきつばたという五文字を(それぞれの)句のはじめにおいて、旅の心を詠んでごらんなさい」といったので、詠んだ、
唐衣の着慣れたように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、 遥々やってきたこの旅を(しみじみと悲しく)思うことだと詠んだので、人々は皆、干し飯の上に涙を落として、(干し飯)がふやけてしまった。)
修辞 盛り沢山(折句 枕詞 掛詞 縁語 係り結び)の 万葉集とは真逆の歌。
いずれがアヤメかカキツバタ(美女の品定め 甲乙つけ難し)
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
姫妃の青(アガサ) 門外不出の王者の紫(バーガンディ)
コストアップに耐えられず 絵になる銘品も 廃盤に
アンティコシェープ
ルネッサンス期の 銀器のシェープから ロココ調に 生まれました。
お店でアガサブルーフラワーを 見たお客さんが言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレはよく お部屋の飾り絵として 買われます。
二代目 ジノリ侯のお眼にかない 二百数十年生き続けた 美術品です。それにしても 審美眼の権化 ポンパドール夫人命名の アガサブルーと 門外不出の王者の紫で描いた この名画を 美しいといわれる 貴方のお眼眼は 時空を超えて侯や夫人のお眼眼と 一体です。
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類稀な 美貌と知性の女性は 鄙に生まれながら 自らの運命に従い 皇帝の妃に。
生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
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