リチャードジノリ 【ベッキオジェンマ(翡翠)】 コーヒーC/S・L 30%Off
リチャードジノリ 【ベッキオジェンマ(翡翠)】 コーヒーC/S・L 30%Off
祝 ホワイトデイ・フェア ( 2/14~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
ヒスイ(翡翠カワセミ、jade)は、深緑の半透明な宝石のひとつ。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では 古くは玉(ぎょく)と呼ばれ人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。鉱物学的には「翡翠=ジェイド」と呼ばれる石は 化学組成の違いから「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト透閃石)」に分かれ、別の鉱物であるが 区別がつきにくく どちらも「翡翠」とよんでいる。
不老不死及び生命の再生力を持つと信じられ 古代には 遺体全体を玉で覆われた。
マヤ パレンケのパカル王の遺体を飾った仮面は、340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石でつくられている。
マヤ
秦の始皇帝の遺体も玉で覆われていた。中南米の王族の墓でも同様の処置が確認される。
中国では、価値が高い宝石とされ、古くから、装飾品や器、置物などに加工されてきた。ニュージーランドやメソアメリカでは呪いの道具として使われていた(メソアメリカ スペイン人に滅ぼされたメキシコのアステカ王国では腹痛を和らげる石としても)。先史時代のヨーロッパでは 非常に壊れにくく 石斧などの武器でもあった。日本では古代に糸魚川硬玉の翡翠が勾玉などにされ珍重されていたが、奈良時代以降 その存在は顧みられなくなった。
ヒスイ
糸魚川硬玉の翡翠の勾玉
日本の5月の誕生石に エメラルドとともに数えられている。宝石言葉は「長寿、健康、徳」。 軟玉も 翡翠といい、半貴石に分類されるが 白く透明感のある最上質のものは羊脂玉と呼ばれ、中国では硬玉よりも価値が高いとされる。18世紀(清)以降、ミャンマーの高品質の硬玉は 琅玕(ロウカン)と呼ばれ珍重されることになった。琅玕は中国語で青々とした美竹を意味し、英語ではインペリアルジェイドと呼ばれる。これは西太后が 熱狂的な収集家であったことに由来する。
台北市故宮博物院を代表する名品の一つである翠玉白菜(すいぎょくはくさい)は、硬玉の高さ19センチメートルの美術品。
WW ジェード コーヒーシュガー 翠玉白菜
また、世界で最初に翡翠を使ったのは、約5000年前の縄文前期末の人々であり、世界最古の翡翠大珠が 山梨県で見つかっている。日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。日本の翡翠中から見出される青い鉱物は、糸魚川石という新鉱物であることが発見されている。
カワセミ
「翡翠」はカワセミとも読むが 古代日本では玉は「たま」、カワセミは「しょうびん」と呼ばれていて、同じ名前の記録はなく 「翡翠」の語は比較的最近に 中国から輸入されたと推察できる。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ジェンマ(翡翠) 手描き
ドッチア窯の 金ロゴ(ジノリの 誇りの金印)
有るのが 不思議な手工芸・廃盤品 手描きのコストアップから 少シリーズ化 少制作化の
波は この銘作中の銘作を おなじ手描のグレースより さらに繊細で 手間がかかるため
早くに制作中止に追い込まれました。シンプルなようですが 翡翠色のスッキリ細いライン
リムの3本ものゴールドラインは 端然として美しく 見る人に 感銘を与得ずにはおきません。
百聞は 一見に 如かず。ぜひ ご覧になってください。
手描き金彩
本金は 古色が付きます。
風格がある 古色は捨て難いのですが 軽く磨けば 元の金ピカになります。
引出物ギフトに 最適
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統のという意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と
なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており
マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで
継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
お店で ベッキオジェンマを 見たお客さんが言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
二代目 ジノリ侯のお眼にかない 二百数十年生き続けた 美術品です。
それにしても この繊細な 手描きの翡翠ラインの器を見て 美しいと言われる
貴方のお眼眼は 時空を超えて 侯のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【ベッキオジェンマ(翡翠)】 コーヒーC/S・L 30%Off のお求めはコチラ
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ソーサー絵・カップ正面 取っ手面 ドッチア窯の 金ロゴ
リチャードジノリ 【 ベッキオジェンマ(翡翠) 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
祝 ホワイトデイ・フェア ( 2/14~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
ヒスイ(翡翠カワセミ、jade)は、深緑の半透明な宝石のひとつ。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では 古くは玉(ぎょく)と呼ばれ人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。鉱物学的には「翡翠=ジェイド」と呼ばれる石は 化学組成の違いから「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト透閃石)」に分かれ、別の鉱物であるが 区別がつきにくく どちらも「翡翠」とよんでいる。
不老不死及び生命の再生力を持つと信じられ 古代には 遺体全体を玉で覆われた。
マヤ パレンケのパカル王の遺体を飾った仮面は、340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石でつくられている。
マヤ
秦の始皇帝の遺体も玉で覆われていた。中南米の王族の墓でも同様の処置が確認される。
中国では、価値が高い宝石とされ、古くから、装飾品や器、置物などに加工されてきた。ニュージーランドやメソアメリカでは呪いの道具として使われていた(メソアメリカ スペイン人に滅ぼされたメキシコのアステカ王国では腹痛を和らげる石としても)。先史時代のヨーロッパでは 非常に壊れにくく 石斧などの武器でもあった。日本では古代に糸魚川硬玉の翡翠が勾玉などにされ珍重されていたが、奈良時代以降 その存在は顧みられなくなった。
ヒスイ
糸魚川硬玉の翡翠の勾玉
日本の5月の誕生石に エメラルドとともに数えられている。宝石言葉は「長寿、健康、徳」。 軟玉も 翡翠といい、半貴石に分類されるが 白く透明感のある最上質のものは羊脂玉と呼ばれ、中国では硬玉よりも価値が高いとされる。18世紀(清)以降、ミャンマーの高品質の硬玉は 琅玕(ロウカン)と呼ばれ珍重されることになった。琅玕は中国語で青々とした美竹を意味し、英語ではインペリアルジェイドと呼ばれる。これは西太后が 熱狂的な収集家であったことに由来する。
台北市故宮博物院を代表する名品の一つである翠玉白菜(すいぎょくはくさい)は、硬玉の高さ19センチメートルの美術品。
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また、世界で最初に翡翠を使ったのは、約5000年前の縄文前期末の人々であり、世界最古の翡翠大珠が 山梨県で見つかっている。日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。日本の翡翠中から見出される青い鉱物は、糸魚川石という新鉱物であることが発見されている。
カワセミ
「翡翠」はカワセミとも読むが 古代日本では玉は「たま」、カワセミは「しょうびん」と呼ばれていて、同じ名前の記録はなく 「翡翠」の語は比較的最近に 中国から輸入されたと推察できる。
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ジェンマ(翡翠) 手描き
ドッチア窯の 金ロゴ(ジノリの 誇りの金印)
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波は この銘作中の銘作を おなじ手描のグレースより さらに繊細で 手間がかかるため
早くに制作中止に追い込まれました。シンプルなようですが 翡翠色のスッキリ細いライン
リムの3本ものゴールドラインは 端然として美しく 見る人に 感銘を与得ずにはおきません。
百聞は 一見に 如かず。ぜひ ご覧になってください。
手描き金彩
本金は 古色が付きます。
風格がある 古色は捨て難いのですが 軽く磨けば 元の金ピカになります。
引出物ギフトに 最適
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統のという意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と
なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており
マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで
継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
お店で ベッキオジェンマを 見たお客さんが言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
二代目 ジノリ侯のお眼にかない 二百数十年生き続けた 美術品です。
それにしても この繊細な 手描きの翡翠ラインの器を見て 美しいと言われる
貴方のお眼眼は 時空を超えて 侯のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【ベッキオジェンマ(翡翠)】 コーヒーC/S・L 30%Off のお求めはコチラ
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リチャードジノリ 【 ベッキオジェンマ(翡翠) 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
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「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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