リチャードジノリ 【インペロジュリエッタ】 ティーC/S 25%Off
リチャードジノリ 【インペロジュリエッタ】 ティーC/S 25%Off
祝 ホワイトデイ・フェア ( 2/ 6~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
伊名 ラパロ
ラパロは、州立ポルトフィーノ自然公園の一部となっている。ヨーロッパでは有名なリゾート地で 美しい地中海の港湾都市です。ヘミングウェイが 短編『雨の中の猫』を執筆したゆかりの地でもあります。
そして何より有名なのは「ラパロ条約」です。
1922年4月16日イタリアのラパロにおいて ブレスト・リトフスク条約と第一次世界大戦にもとづく領土及び金銭に関する主張を互いに放棄した上で ドイツ(ヴァイマル共和政)とソヴィエト・ロシアとの間で成立した条約である。この条約の締結は、第一次世界大戦後最大のセンセーショナルな事件として受け止められた。両国にとっては 拡大するポーランドの脅威に備える必要をがあった。西欧列強にとっては ドイツが国交を持っていないロシアと結んだことは、ラパロコンプレックスといわれる不信感を残した。
1599年 シェイクスピア作の悲劇 『ロミオとジュリエット』(卑俗的笑劇)
下敷きの一つ ルイジ・ダ・ポルト(1530年、イタリア)では 主人公二人の名 ロメオとジュリエッタ。特筆すべき相違点は ロメオが毒を仰いで死ぬ直前にジュリエッタが目を覚まし 抱きしめ合いながら言葉を交わすシーンがある。
舞台は14世紀 イタリアの都市ヴェローナ。ロンバルディア同盟諸国の処遇にかこつけ 神聖ローマ帝国フリードリヒ2世皇帝派(モンタギュー家)と ローマ・グレゴリウス9世教皇派(キャピュレット家)に分かれて 血で血を洗う熾烈な抗争が繰り広げられていた。
ロザラインへの片想いに苦しんでいる モンタギュー家の一人息子ロミオは 気晴らしに 友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込む。ロミオは、キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い たちまち 二人は恋におちる。二人は修道僧ロレンスの元で 秘かに結婚。ロレンスは二人の結婚が 両家の争いに終止符を打つきっかけになる事を期待する。
カール・ベッカー作「ロレンス神父の前のロミオとジュリエット」
しかしその直後、ロミオは友人と共に街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺された。逆上したロミオは キャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまう。ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処する。キャピュレット家は 悲しみにくれるジュリエットに 大公の親戚のパリスとの結婚を命じる。
ジュリエットに助けを求められたロレンスは 彼女をロミオに添わせるべく 仮死の毒を使った計略を立てる。しかし この計画は追放のロミオにうまく伝わらず ジュリエットが死んだと思ったロミオは 彼女の墓で毒薬を飲んで自殺。その直後に 仮死状態から 目覚めたジュリエットも ロミオの短剣で後を追う。事の真相を知って 悲嘆に暮れる両家は ついに和解する。
シェイクスピアの悲劇に分類されているが 四大悲劇(ハムレット、マクベス、オセロ、リア王)のような重厚な悲劇ではなく 過剰なまでの冗談や乱暴な語句 猥談的やりとりが見受けられ ファルス(卑俗的笑劇)としての要素が明らかに強い。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
フィレンツェの古典リボン
組紐模様 縄文式土器にもある如く 古くから成立して
いるが 特に古代ローマ時代に 大いに発達しました。
ネオクラシックのガーランド(花綱)
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
この可愛い中に 貴賓を備えた銘作も コストアップに耐えられず 旧ジノリで 早くに廃盤。 このシリーズ 20年前ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる歴史と伝統を買いました。現在ではコスト面から 制作困難な手工芸品を 創業26周年謝恩価格でご提供
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
お店で Impジュリエッタを 見たお客さんが 言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレは 2代目 ジノリ侯が いかついエンパイヤに 可愛いリボンと 花を添えた佳品で 貴族趣味の王侯姫妃たちに 愛用され 約3世紀 生き続けた 美術品です。コレを美しいといわれる 貴方のお眼は 時空を超えて 侯や 姫妃のお眼眼と 一体です。
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ソーサー絵 取っ手面 ドッチア窯 金ロゴ
リチャードジノリ 【 インペロジュリエッタ 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
雄雄しく 歴史に名を連ねた 覇者達 彼らが 歴史の頂点を 極めた時 王者に相応しい 王者の尊厳に そむかぬものを求めて 白い黄金にたどり着く。
悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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伊名 ラパロ
ラパロは、州立ポルトフィーノ自然公園の一部となっている。ヨーロッパでは有名なリゾート地で 美しい地中海の港湾都市です。ヘミングウェイが 短編『雨の中の猫』を執筆したゆかりの地でもあります。
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1922年4月16日イタリアのラパロにおいて ブレスト・リトフスク条約と第一次世界大戦にもとづく領土及び金銭に関する主張を互いに放棄した上で ドイツ(ヴァイマル共和政)とソヴィエト・ロシアとの間で成立した条約である。この条約の締結は、第一次世界大戦後最大のセンセーショナルな事件として受け止められた。両国にとっては 拡大するポーランドの脅威に備える必要をがあった。西欧列強にとっては ドイツが国交を持っていないロシアと結んだことは、ラパロコンプレックスといわれる不信感を残した。
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下敷きの一つ ルイジ・ダ・ポルト(1530年、イタリア)では 主人公二人の名 ロメオとジュリエッタ。特筆すべき相違点は ロメオが毒を仰いで死ぬ直前にジュリエッタが目を覚まし 抱きしめ合いながら言葉を交わすシーンがある。
舞台は14世紀 イタリアの都市ヴェローナ。ロンバルディア同盟諸国の処遇にかこつけ 神聖ローマ帝国フリードリヒ2世皇帝派(モンタギュー家)と ローマ・グレゴリウス9世教皇派(キャピュレット家)に分かれて 血で血を洗う熾烈な抗争が繰り広げられていた。
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しかしその直後、ロミオは友人と共に街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺された。逆上したロミオは キャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまう。ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処する。キャピュレット家は 悲しみにくれるジュリエットに 大公の親戚のパリスとの結婚を命じる。
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シェイクスピアの悲劇に分類されているが 四大悲劇(ハムレット、マクベス、オセロ、リア王)のような重厚な悲劇ではなく 過剰なまでの冗談や乱暴な語句 猥談的やりとりが見受けられ ファルス(卑俗的笑劇)としての要素が明らかに強い。
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フィレンツェの古典リボン
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いるが 特に古代ローマ時代に 大いに発達しました。
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ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
この可愛い中に 貴賓を備えた銘作も コストアップに耐えられず 旧ジノリで 早くに廃盤。 このシリーズ 20年前ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる歴史と伝統を買いました。現在ではコスト面から 制作困難な手工芸品を 創業26周年謝恩価格でご提供
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ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
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私は お答えします。
コレは 2代目 ジノリ侯が いかついエンパイヤに 可愛いリボンと 花を添えた佳品で 貴族趣味の王侯姫妃たちに 愛用され 約3世紀 生き続けた 美術品です。コレを美しいといわれる 貴方のお眼は 時空を超えて 侯や 姫妃のお眼眼と 一体です。
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次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
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