リチャードジノリ 【インペロブラック】 コーヒーC/S 120cc 30%Off
リチャードジノリ 【インペロブラック】 コーヒーC/S 120cc 30%Off
祝 ホワイトデイ・フェア ( 2/ 4~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
グッチ・ジノリで コンテッサ・オニキスとして復活?
先日 横浜のお客様から 電話がありました。
某百貨店で インペロブラックを見たのですが アインさんで買った自分の持ってるものとは全然違うのでびっくりしました。
お答え
和名 コンテッサ・オニキスのことですね。それは スプレイであっさり仕上げられた 美しい現代作です。重厚な 手塗りのインペロブルーとは 似て非なるものです。美しさの好みは 色々ですね。只 今作と違って 手間は10倍も違うのは確かです。
お客さん
アインさんの貫禄のインペロが 無くならないうちに追加注文します。
違いを分かってくださる方に 幸多かれ。 目出度し芽出度し!
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
有るのが不思議なエナメル手工芸・廃盤品
手塗りのエナメルは 深い漆の質感を 呈します。
ソーサー中央に描かれる 古代ローマ ヴェスピオス火山噴火により 埋もれた ポンペイ遺跡出土の壷は 5年前まで残った グリーンでは 割愛され 塗りも 吹き付けと 簡略化されておりました。
この重厚感あふれ ジノリを代表するシリーズは 20年前 当時 ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる 歴史と伝統を買いました。現在では コスト面から 制作困難な手工芸品を 創業26周年謝恩特価でご提供
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
ナポレオン2世
ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト(1811年 - 1832年)は、ナポレオン1世の嫡男(長男ではない)で、フランス帝国の皇太子、ローマ王。第一帝政の名目上の皇帝としては 父ナポレオン1世の100日天下終焉後の半月間。
1811年3月、フランス皇帝ナポレオン1世とハプスブルク=ロートリンゲン家のマリー・ルイーズ(マリア・ルイーゼ)皇后の間に生まれた。生まれてすぐの6月9日にローマ王とされた。1814年4月6日にナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、フランツ2世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズの所にやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世をオーストリアに連行した。5月21日にフランソワは、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒによって、ほとんど監禁同然の身になった。
1815年6月18日に ワーテルローの戦いで完敗、再退位したナポレオン1世から後継者として指名され、叔父のリュシアンによって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、フランソワの即位は公的なものとなり 6月22日から7月7日までナポレオン2世は名目上のフランス皇帝であった。
1816年3月に、母マリア・ルイーゼがパルマ公国の統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、フランス語を禁じられ、ドイツ語を学習する事を強制され 名前もフランツ(ドイツ語)を名乗った。1817年9月上旬には母マリア・ルイーゼが父の存命中から、秘密裡に情を通じて2人の子供を生していた ナイペルク伯と正式に結婚した。1821年5月1日、幼い時に別れたまま一度も再会する事がなかった父ナポレオン1世がセントヘレナ島で死去した。母がナイペルク伯と結婚した頃から、フランツはライヒシュタット公と呼ばれる事になった。彼はドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ったが父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。宮殿内の図書館で 父の部下ラス・カスが発表『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、貪り読みし 彼は感動に包まれた。ライヒシュタット公は、ナポレオン1世が、常々オーストリア人達の言う「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公は 不義密通の母を嫌悪し 父を深く尊敬し、強く憧れるようになった。結核にかかったのもこの頃だった。少しでも父に近づきたいと思ったライヒシュタット公は、耐寒訓練などの猛烈な軍事訓練に励むようになり、この事が病気を悪化させてしまったと言われている。
ライヒシュタット公は 徹底的にナポレオン1世を擁護した『ワーテルロー戦記』を著作した プロケッシュというオーストリア人の青年と 親友になった。1832年7月にプロケッシュは、ローマにいたライヒシュタット公の祖母マリア・レティツィアの許を訪れ ライヒシュタット公はナポレオン1世の息子にふさわしく、立派に成長していると伝えた。レティツィアは喜び、「あの子はフランスの玉座に上るでしょう」と言った。その同じ日、ライヒシュタット公は病の床に臥していた。公の教育係の再三の催促で、やっとウィーンに来たマリア・ルイーゼは、やつれ果てた息子が 夢うつつで「馬の用意をしろ! 父の前方を行かなければならないのだ」との突然の叫びを聞いた。翌1832年7月22日、ライヒシュタット公は21歳という若さで死去し、ハプスブルク家の墓地であるカプツィーネ教会に葬られた。妻子なく、ナポレオン1世の直系は途絶えた。余談ですが 義理の叔母ゾフィーと仲が良く、従弟にあたるマクシミリアン誕生の際は、二人の不倫が 公の独身の根拠として 噂されるほどであった。
後にナチス・ドイツ占領下の1940年12月15日、ナポレオン崇拝者の1人でもあるアドルフ・ヒトラーによって、オテル・デ・ザンヴァリッドの地下墓所に葬られた。
ナポレオン・フランツ(M・M・ダフィンガー画)
本金は 古色が付きます。
風格がある 古色は捨て難いのですが 軽く磨けば 元の金ピカになります。
お店で インペロブラックを 見たお客さんが 言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレは ネオクラシック真っ盛り 2代目 ジノリ侯が ジノリ窯継承の威信を 世に問うた力作で 貴族趣味の王侯姫妃たちに 愛用され 約3世紀 生き続けた 美術品です。コレを美しいといわれる 貴方のお眼眼は 時空を超えて 侯や 姫妃のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【インペロブラック】 コーヒーC/S 120cc 30%Off のお求めはコチラ
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ソーサー絵 ポンペイ遺跡出土の壷 取っ手面
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ドッチア窯 金ロゴ
リチャードジノリ 【 インペロブラック 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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この重厚感あふれ ジノリを代表するシリーズは 20年前 当時 ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる 歴史と伝統を買いました。現在では コスト面から 制作困難な手工芸品を 創業26周年謝恩特価でご提供
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ナポレオン2世
ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト(1811年 - 1832年)は、ナポレオン1世の嫡男(長男ではない)で、フランス帝国の皇太子、ローマ王。第一帝政の名目上の皇帝としては 父ナポレオン1世の100日天下終焉後の半月間。
1811年3月、フランス皇帝ナポレオン1世とハプスブルク=ロートリンゲン家のマリー・ルイーズ(マリア・ルイーゼ)皇后の間に生まれた。生まれてすぐの6月9日にローマ王とされた。1814年4月6日にナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、フランツ2世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズの所にやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世をオーストリアに連行した。5月21日にフランソワは、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒによって、ほとんど監禁同然の身になった。
1815年6月18日に ワーテルローの戦いで完敗、再退位したナポレオン1世から後継者として指名され、叔父のリュシアンによって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、フランソワの即位は公的なものとなり 6月22日から7月7日までナポレオン2世は名目上のフランス皇帝であった。
1816年3月に、母マリア・ルイーゼがパルマ公国の統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、フランス語を禁じられ、ドイツ語を学習する事を強制され 名前もフランツ(ドイツ語)を名乗った。1817年9月上旬には母マリア・ルイーゼが父の存命中から、秘密裡に情を通じて2人の子供を生していた ナイペルク伯と正式に結婚した。1821年5月1日、幼い時に別れたまま一度も再会する事がなかった父ナポレオン1世がセントヘレナ島で死去した。母がナイペルク伯と結婚した頃から、フランツはライヒシュタット公と呼ばれる事になった。彼はドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ったが父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。宮殿内の図書館で 父の部下ラス・カスが発表『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、貪り読みし 彼は感動に包まれた。ライヒシュタット公は、ナポレオン1世が、常々オーストリア人達の言う「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公は 不義密通の母を嫌悪し 父を深く尊敬し、強く憧れるようになった。結核にかかったのもこの頃だった。少しでも父に近づきたいと思ったライヒシュタット公は、耐寒訓練などの猛烈な軍事訓練に励むようになり、この事が病気を悪化させてしまったと言われている。
ライヒシュタット公は 徹底的にナポレオン1世を擁護した『ワーテルロー戦記』を著作した プロケッシュというオーストリア人の青年と 親友になった。1832年7月にプロケッシュは、ローマにいたライヒシュタット公の祖母マリア・レティツィアの許を訪れ ライヒシュタット公はナポレオン1世の息子にふさわしく、立派に成長していると伝えた。レティツィアは喜び、「あの子はフランスの玉座に上るでしょう」と言った。その同じ日、ライヒシュタット公は病の床に臥していた。公の教育係の再三の催促で、やっとウィーンに来たマリア・ルイーゼは、やつれ果てた息子が 夢うつつで「馬の用意をしろ! 父の前方を行かなければならないのだ」との突然の叫びを聞いた。翌1832年7月22日、ライヒシュタット公は21歳という若さで死去し、ハプスブルク家の墓地であるカプツィーネ教会に葬られた。妻子なく、ナポレオン1世の直系は途絶えた。余談ですが 義理の叔母ゾフィーと仲が良く、従弟にあたるマクシミリアン誕生の際は、二人の不倫が 公の独身の根拠として 噂されるほどであった。
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次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
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フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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