リチャードジノリ 【アンティックローズ】 ティーC/S 20%Off
リチャードジノリ 【アンティックローズ】 ティーC/S 20%Off
売り切れ 再入荷 ( 1/15~ 2/10) ラッキーセブン 7客限定
私の持論ですが アンティックは古いから良いのではありません。古の刀剣 正宗(鎌倉時代末期に「相州伝」と呼ばれる作風を確立した刀工。)や 村正(伊勢国桑名で活躍した刀工 別称は「千子村正」。徳川家康にまつわる因縁から妖刀とも呼ばれる)などには こんなに科学が進んだ現代でも 名工の感の冴えに おいそれとは並べません。
短刀 名物日向正宗 無銘(国宝)。三井記念美術館。
村正妖刀伝説
徳川家康の祖父清康と父広忠(死因は多くの史料では病死)は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。実は、徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が現在も所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので、末古刀に良く見られる皆焼(ひたつら)の出来である。このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。
村正作の刀。銘は「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵。
今では 技術や伝承が廃れ 美や性能の再現困難なものこそがアンティックの値打ちではないでしょうか?
せめて 今作に劣らなくて 100年も前のものであってほしいと思うのですが・・・・・・・
先日 テレビに出ていた マイセンの猿の音楽隊はひどかったですね。とてもマイセンの絵付けとは思われなかったです。それに付けられた値段 380万は 果たして妥当なのかどうか?
約35年前の作品 毛は1本1本 緻密に描かれております。
ドイツには 昔からマイセンの大物個人蒐集家が 多くおられまして 当代の優秀品は 競い合う彼らのコレクションに収まっております。それらは 故人の遺志を継いだ遺族たちにより 財団美術館が設立され 公開展示されております。一般に出回っているアンティックの優秀作に出会えるのは 稀有のことでしょうか?ただ それこそが 掘り出し物で 目利き自慢のアンティック蒐集家の醍醐味なのでしょうね。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
アンティコシェープ
ルネッサンス期の 銀器のシェープから 生まれました。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
ジノリの4つの古いバラの中で一番人気
中世ロマネスクかおる 二百数十年の伝統品
お店で アンティックローズを 見たお客さんが 言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレは 二代目 ジノリ侯のお眼にかない 姫妃たちに 愛用され 二百数十年生き続けた 美術品です。コレを 美しいといわれる 貴方のお眼は 時空を超えて 侯や 姫妃のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【アンティックローズ】 ティーC/S 20%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
ソーサー絵・カップ正面 反対面 取っ手面
どの小さい写真もクリックで拡大
ドッチア窯金ロゴ
リチャードジノリ 【 アンティックローズ 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
雄雄しく 歴史に名を連ねた 覇者達 彼らが 歴史の頂点を 極めた時 王者に相応しい 王者の尊厳に そむかぬものを求めて 白い黄金にたどり着く。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
売り切れ 再入荷 ( 1/15~ 2/10) ラッキーセブン 7客限定
私の持論ですが アンティックは古いから良いのではありません。古の刀剣 正宗(鎌倉時代末期に「相州伝」と呼ばれる作風を確立した刀工。)や 村正(伊勢国桑名で活躍した刀工 別称は「千子村正」。徳川家康にまつわる因縁から妖刀とも呼ばれる)などには こんなに科学が進んだ現代でも 名工の感の冴えに おいそれとは並べません。
短刀 名物日向正宗 無銘(国宝)。三井記念美術館。
村正妖刀伝説
徳川家康の祖父清康と父広忠(死因は多くの史料では病死)は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。実は、徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が現在も所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので、末古刀に良く見られる皆焼(ひたつら)の出来である。このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。
村正作の刀。銘は「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵。
今では 技術や伝承が廃れ 美や性能の再現困難なものこそがアンティックの値打ちではないでしょうか?
せめて 今作に劣らなくて 100年も前のものであってほしいと思うのですが・・・・・・・
先日 テレビに出ていた マイセンの猿の音楽隊はひどかったですね。とてもマイセンの絵付けとは思われなかったです。それに付けられた値段 380万は 果たして妥当なのかどうか?
約35年前の作品 毛は1本1本 緻密に描かれております。
ドイツには 昔からマイセンの大物個人蒐集家が 多くおられまして 当代の優秀品は 競い合う彼らのコレクションに収まっております。それらは 故人の遺志を継いだ遺族たちにより 財団美術館が設立され 公開展示されております。一般に出回っているアンティックの優秀作に出会えるのは 稀有のことでしょうか?ただ それこそが 掘り出し物で 目利き自慢のアンティック蒐集家の醍醐味なのでしょうね。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
アンティコシェープ
ルネッサンス期の 銀器のシェープから 生まれました。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
ジノリの4つの古いバラの中で一番人気
中世ロマネスクかおる 二百数十年の伝統品
お店で アンティックローズを 見たお客さんが 言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレは 二代目 ジノリ侯のお眼にかない 姫妃たちに 愛用され 二百数十年生き続けた 美術品です。コレを 美しいといわれる 貴方のお眼は 時空を超えて 侯や 姫妃のお眼眼と 一体です。
リチャードジノリ 【アンティックローズ】 ティーC/S 20%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
ソーサー絵・カップ正面 反対面 取っ手面
どの小さい写真もクリックで拡大
ドッチア窯金ロゴ
リチャードジノリ 【 アンティックローズ 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
雄雄しく 歴史に名を連ねた 覇者達 彼らが 歴史の頂点を 極めた時 王者に相応しい 王者の尊厳に そむかぬものを求めて 白い黄金にたどり着く。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
コメント
コメントの投稿
« ウェッジウッド 【アレクサンドラ】 兼用(リー)C/S 20%Off l Home l アウガルテン 【マリアテレジア】 コーヒーC/S・ーツアルト型 バラ 25%Off »