マイセン 【200年世界限定ベース】 紫陽花スノーボウル ベース 25%Off
マイセン 【2000年世界限定ベース】 紫陽花スノーボウル ベース 25%Off
祝・新春初売フェア ( 1/ 9~ 1/31) 1本限定
ベース・82324 H31.3cm
1934年頃ロゴ 2000年復刻 金シリアルナンバー(お宝倉庫に写真)
1934年頃原作
2000年世界限定復刻 25本
エカチェリーナ2世(1729年 - 1796年)は、ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年 - 1796年))。夫はピョートル3世、子にパーヴェル1世。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝と称される。エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートルと婚約、翌1745年に結婚した。不幸なことに、ピョートルの男性能力の欠陥のため、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。後にピョートルは手術を受け、ようやく夫婦生活が可能になったものの、その頃には既にエカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフらの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も、有力貴族の娘ヴォロンツォヴァ嬢を寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。1754年 後のパーヴェル1世を出産。父親はサルトゥイコフである可能性もあり。1758年 女児アンナ出産。父はスタニスワフ・ポニャトフスキと推測される。1762年 男児アレクセイ出産。父は近衛連隊将校グリゴリー・オルロフ。火事に紛れての極秘出産。ビーバーの毛皮に包まれ宮殿から連れ出されたため、ボーブリンスキーの姓を与えられ、後に貴族に叙せられる。1762年にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となった。ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなり和約を結んだことは(サンクトペテルブルク条約)、ロシアの内外で不評を買った。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族を重用した。ルター派信者のピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。ピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、アレクセイを妊娠中だった彼女は、すぐには動きがとれなかった。4月に極秘に出産を済ませた後、1762年エカチェリーナは、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した時、軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったとされ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。
馬上のエカチェリーナ
オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊・反ピョートル3世派の貴族はエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣達も多くが咎めなく帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
ロシアのエカテリーナ女帝に贈られた スノーボールをベースに
コレぐらいのお品になると 市場に出る前に ドイツ政財界の 大物マイセンコレクターの 手に落ちます。事実 このペースが 2月の フランクフルト・メッセに 出展された時には 既に 限定25本とも大物コレクター達に 買い占め予約されておりました。私は マイセン会に 手を回して 一人の方が 2本予約されていることを 知りました。偶々 私はその方を知っておりましたので 1本を割愛してほしいと 申し入れました。彼の言うのには「1本は 自分のコレクションに残し もう1本は5年後に プレミアムの付いたところで売る」 でした。私は 何度かの交渉により 約6000万円の 洋食器を 彼から購入することで 1本を割愛してもらうことに成功しました。嬉しかったですね。入荷してきたのが私の誕生月 5月であったのも 一入の感激でした。
マイセン 【200年世界限定ベース】 紫陽花スノーボウル ベース 25%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
反対面 原作年ロゴ・金シリアルナンバー
マイセン 【 2000年世界限定ベース 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それ
から半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景
徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味が
かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金なら
ぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に
ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみか
ら逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。
ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは
1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る
1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・
研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしき
マイセンの誕生となったのです・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
祝・新春初売フェア ( 1/ 9~ 1/31) 1本限定
ベース・82324 H31.3cm
1934年頃ロゴ 2000年復刻 金シリアルナンバー(お宝倉庫に写真)
1934年頃原作
2000年世界限定復刻 25本
エカチェリーナ2世(1729年 - 1796年)は、ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年 - 1796年))。夫はピョートル3世、子にパーヴェル1世。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝と称される。エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートルと婚約、翌1745年に結婚した。不幸なことに、ピョートルの男性能力の欠陥のため、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。後にピョートルは手術を受け、ようやく夫婦生活が可能になったものの、その頃には既にエカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフらの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も、有力貴族の娘ヴォロンツォヴァ嬢を寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。1754年 後のパーヴェル1世を出産。父親はサルトゥイコフである可能性もあり。1758年 女児アンナ出産。父はスタニスワフ・ポニャトフスキと推測される。1762年 男児アレクセイ出産。父は近衛連隊将校グリゴリー・オルロフ。火事に紛れての極秘出産。ビーバーの毛皮に包まれ宮殿から連れ出されたため、ボーブリンスキーの姓を与えられ、後に貴族に叙せられる。1762年にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となった。ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなり和約を結んだことは(サンクトペテルブルク条約)、ロシアの内外で不評を買った。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族を重用した。ルター派信者のピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。ピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、アレクセイを妊娠中だった彼女は、すぐには動きがとれなかった。4月に極秘に出産を済ませた後、1762年エカチェリーナは、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した時、軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったとされ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。
馬上のエカチェリーナ
オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊・反ピョートル3世派の貴族はエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣達も多くが咎めなく帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
ロシアのエカテリーナ女帝に贈られた スノーボールをベースに
コレぐらいのお品になると 市場に出る前に ドイツ政財界の 大物マイセンコレクターの 手に落ちます。事実 このペースが 2月の フランクフルト・メッセに 出展された時には 既に 限定25本とも大物コレクター達に 買い占め予約されておりました。私は マイセン会に 手を回して 一人の方が 2本予約されていることを 知りました。偶々 私はその方を知っておりましたので 1本を割愛してほしいと 申し入れました。彼の言うのには「1本は 自分のコレクションに残し もう1本は5年後に プレミアムの付いたところで売る」 でした。私は 何度かの交渉により 約6000万円の 洋食器を 彼から購入することで 1本を割愛してもらうことに成功しました。嬉しかったですね。入荷してきたのが私の誕生月 5月であったのも 一入の感激でした。
マイセン 【200年世界限定ベース】 紫陽花スノーボウル ベース 25%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
反対面 原作年ロゴ・金シリアルナンバー
マイセン 【 2000年世界限定ベース 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それ
から半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景
徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味が
かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金なら
ぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に
ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみか
ら逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。
ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは
1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る
1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・
研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしき
マイセンの誕生となったのです・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
コメント
コメントの投稿
« リチャードジノリ 【イタリアンシーン(フィレンツェ)】 アンピールC/S(S) 25%Off l Home l バカラ 【ハッピーアワー】 アルクール 30%Off »