リチャードジノリ 【ロゼリーニ】 ティーC/S 15%Off
リチャードジノリ 【ロゼリーニ 】 ティーC/S 15%Off
お歳暮ギフトフェア (11/10~12/10) 末広がり 八客限定
英名 ローズライン
サンシュルピス教会、「ダ・ビンチ・コード」で一躍有名になった教会で、ローズラインと呼ばれる子午線が教会内を走っていて、ここに秘密の品が隠されていて(教会側は 否定)、それを奪いに犯人が訪れる・・・というシーンがあります。
そこで出てくる子午線を表すオベリスクがこちら。
確かに『ダ・ヴィンチ・コード』は、ダン・ブラウンの創作によるフィクションですが、その中には多くの事実が入ってるらしく、どこまでがフィクションで、どこが真実かその境界が微妙らしい。なかには本当は事実なのだが、それを前面に出すと関係各方面に問題が起こるので、あえてフィクションにしている処もあるらしい。ダン・ブラウン自身も原作の冒頭部分で、次のように断っています。
この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。―ダン・ブラウン
ローズライン―北極と南極を結ぶ想像上の線のことで、子午線あるいは経線のことです。これは無数に引くことができるのですが、昔の航海者はそれらの線のどれを真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決める必要があったのです。現在、その線は英国のグリニッジにあり、世界共通になっています。しかし、それまでは、フランスの子午線が世界初であり、多くの国がそれを使っていたのです。しかし、数百年の年月を経て英国が地図製作や航海技術で世界の頂点に立ったことから、英国の本初子午線―経度ゼロの子午線を世界標準に決めざるを得なかったのです。1884年当時、本初子午線は次の11あったのです。これでは、航法士は困ってしまいます。
グリニッジ コペンハーゲン サンクトペテルブルグ パリ リスボン ストックホルム ベルリン リオ 東京 カディス ローマ
しかし、商業用商船の72%がグリニッジの本初子午線を利用していて、パリのそれを使っていたのはわずか8%でした。そこで、1884年にワシントンで開かれた国際会議において、25ヶ国が投票した結果、22対1でグリニッジへの統一が決まったのです。フランスとブラジルは棄権しています。フランスはグリニッジへの統一が決まった後もフランスの本初子午線を使い続け、標準時間としては1911年まで、地図上の基準としては1914年までがんばっていたのです。パリの街路などには135個の青銅のメタル(ARAGO)が埋め込まれており、これを結ぶと世界初の子午線―フランスの本初子午線になる
(グッチ)ジノリより新入荷しました。何と 原価80%です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の春に 思い切って発注したお品です。
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統の という意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで 継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
リチャードジノリ 【ロゼリーニ】 ティーC/S 15%Off のお求めはコチラ
反対面 ソーサー絵・カップ正面 取っ手面
どの小さい写真もクリックで拡大
リチャードジノリ 【 ロゼリーニ 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでも カオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯に
よって 開窯されました。侯は ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルン
フェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年ごろからリモージュのカオリンを 用いることで
完璧な白磁を完成させております。
1771年 ナポリ窯創設される。ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国 フェルディナンド3世治世下の(ナポリ窯)カポデモンテ(マリア・アマリアのカポデモンテではない)を 1834年 ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印Ginoriを施したものは正当です。
ただここからが問題ですがジノリは ナポリを訪れる観光客への街道沿いのお土産屋からの依頼で モニュメント的なベースや キャンドルスタンドなどのモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginoriの施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる 中国製の清水焼に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。
1869年には リチャード社を 合併して 今の リチャードジノリ社になりました。(真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して 新し
い 芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
お歳暮ギフトフェア (11/10~12/10) 末広がり 八客限定
英名 ローズライン
サンシュルピス教会、「ダ・ビンチ・コード」で一躍有名になった教会で、ローズラインと呼ばれる子午線が教会内を走っていて、ここに秘密の品が隠されていて(教会側は 否定)、それを奪いに犯人が訪れる・・・というシーンがあります。
そこで出てくる子午線を表すオベリスクがこちら。
確かに『ダ・ヴィンチ・コード』は、ダン・ブラウンの創作によるフィクションですが、その中には多くの事実が入ってるらしく、どこまでがフィクションで、どこが真実かその境界が微妙らしい。なかには本当は事実なのだが、それを前面に出すと関係各方面に問題が起こるので、あえてフィクションにしている処もあるらしい。ダン・ブラウン自身も原作の冒頭部分で、次のように断っています。
この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。―ダン・ブラウン
ローズライン―北極と南極を結ぶ想像上の線のことで、子午線あるいは経線のことです。これは無数に引くことができるのですが、昔の航海者はそれらの線のどれを真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決める必要があったのです。現在、その線は英国のグリニッジにあり、世界共通になっています。しかし、それまでは、フランスの子午線が世界初であり、多くの国がそれを使っていたのです。しかし、数百年の年月を経て英国が地図製作や航海技術で世界の頂点に立ったことから、英国の本初子午線―経度ゼロの子午線を世界標準に決めざるを得なかったのです。1884年当時、本初子午線は次の11あったのです。これでは、航法士は困ってしまいます。
グリニッジ コペンハーゲン サンクトペテルブルグ パリ リスボン ストックホルム ベルリン リオ 東京 カディス ローマ
しかし、商業用商船の72%がグリニッジの本初子午線を利用していて、パリのそれを使っていたのはわずか8%でした。そこで、1884年にワシントンで開かれた国際会議において、25ヶ国が投票した結果、22対1でグリニッジへの統一が決まったのです。フランスとブラジルは棄権しています。フランスはグリニッジへの統一が決まった後もフランスの本初子午線を使い続け、標準時間としては1911年まで、地図上の基準としては1914年までがんばっていたのです。パリの街路などには135個の青銅のメタル(ARAGO)が埋め込まれており、これを結ぶと世界初の子午線―フランスの本初子午線になる
(グッチ)ジノリより新入荷しました。何と 原価80%です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の春に 思い切って発注したお品です。
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統の という意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで 継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
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イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでも カオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯に
よって 開窯されました。侯は ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルン
フェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年ごろからリモージュのカオリンを 用いることで
完璧な白磁を完成させております。
1771年 ナポリ窯創設される。ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国 フェルディナンド3世治世下の(ナポリ窯)カポデモンテ(マリア・アマリアのカポデモンテではない)を 1834年 ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印Ginoriを施したものは正当です。
ただここからが問題ですがジノリは ナポリを訪れる観光客への街道沿いのお土産屋からの依頼で モニュメント的なベースや キャンドルスタンドなどのモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginoriの施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる 中国製の清水焼に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。
1869年には リチャード社を 合併して 今の リチャードジノリ社になりました。(真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して 新し
い 芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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