リチャードジノリ 【インペログリーン】 ティーC/S 30%Off
リチャードジノリ 【インペログリーン】 ティーC/S 30%Off
お歳暮ギフトフェア (11/ 9~12/10) 末広がり 八客限定
ナポレオン・ボナパルト フランス皇帝ナポレオン1世 絶頂期へ
サン・ベルナール峠を越えるナポレオン、ダヴィッド、1800年。美術史博物館(ウィーン)所蔵。
まずは 第二次対仏大同盟に包囲を打破するため イタリアの再獲得を目指し ナポレオンはアルプス山脈を越えて 北イタリアに入る奇襲策をとった。1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。
12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでも フランス軍がオーストリア軍に大勝した。オーストリアは リュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し 対仏強硬派の失脚や国内問題に揺れるイギリスとも 1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは内政面でも 1804年には、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。
1804年5月国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた(フランス第一帝政)。戴冠式には、教皇ピウス7世も招いたが 一般的な教皇から王冠を戴く儀礼をとらず 政治の支配のもとに教会をおくという意志をもって 自ら王冠をかぶった。
ダヴィッド『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。
専制君主に対する不安から イギリスは オーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。
1805年10月、ネルソンのイギリス海軍に フランスはトラファルガー海戦にて完敗。陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領。ナポレオン1世の即位一周年の12月2日 フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 ナポレオンが完勝し 多額の賠償金と領土の割譲を受け 第三次対仏大同盟は崩壊。ちなみに凱旋門は この戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。
1806年10月 プロイセン中心の第四次対仏大同盟結成。ナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領。ロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧し ナポレオンは 兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化。神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、長い歴史を誇った神聖ローマ帝国は消滅。
1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出したが 産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買った。
ナポレオンは残る強敵ロシアに挑み 1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いに勝ったとはいうものの実際は痛み分けであった。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカを 愛人にした。
同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において ロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみ プロイセンは49%の領土を削って小国とし 多額の賠償金を支払わせた。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、王には弟ジェロームのヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。スウェーデン現王家は フランス陸軍元帥ベルナドット(後に ナポレオンに叛旗)を カール14世ヨハンとして この時就けた後裔。デンマークはイギリスへの対抗上 やむなくフランスと同盟を結んだ。ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。
続 ナポレオン・ボナパルト 絶頂期から帝国崩壊へ
俗名 インペログリーン
和名 インペロ・ヴェルデ
伊名 コンテッサ・ヴェルデ
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
有るのが不思議なエナメル手工芸・廃盤品
手塗りのエナメルは 漆の質感を 呈します。
ソーサー中央に描かれる 古代ローマ ポンペイ遺跡出土の壷は 5年前まで残った グリーンでは 割愛され 塗りも 吹き付けと 簡略化されておりました
ジノリを 代表する アンピール様式の花(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
この銘作中の銘作も 手工芸のコストアップに耐えられず いの一番に 制作中止に 追い込まれる。 本間もの。
この重厚感あふれ ジノリを代表するシリーズは 18年前 当時 ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる 歴史と伝統を買いました。現在では コスト面から 制作困難な手工芸品を 創業25周年謝恩特価でご提供
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
グッチ・ジノリで コンテッサ スメラルドとして復活?
先日 東京のお客様から 電話がありました。
某百貨店で インペログリーンを見たのですが アインさんで買った自分の持ってるものとは全然違うのでびっくりしました。
お答え
和名 コンテッサ・エメラルドのことですね。それは スプレイであっさり仕上げられた 美しい現代作です。重厚な 手塗りのインペログリーンとは 似て非なるものです。美しさの好みは 色々ですね。只 今作と違って 手間は10倍も違うのは確かです。
お客さん
アインさんの貫禄のインペロが 無くならないうちに追加注文します。
違いを分かってくださる方に 幸あ多かれ。 目出度し芽出度し!
本金は 古色が付きます。
風格がある 古色は捨て難いのですが 軽く磨けば 元の金ピカになります。
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ソーサー絵・カップ正面 ポンペイ遺跡出土の壷 取っ手面
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ドッチア窯 金ロゴ
リチャードジノリ 【 インペログリーン 】 お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
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類稀な 美貌と知性の女性は 鄙に生まれながら 自らの運命に従い 皇帝の妃に。
生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでも カオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年ごろからリモージュのカオリンを 用いることで完璧な白磁を完成させております。
1771年 ナポリ窯が創設される。ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国 フェルディナンド3世治世下の(ナポリ窯)カポデモンテを 1834年 ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印Ginoriを施したものは正当です。ただここからが問題ですがジノリは ナポリを訪れる観光客への街道沿いのお土産屋からの依頼で モニュメント的なベースや キャンドルスタンドなどのモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginoriの施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる 中国製の清水焼に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。
1869年には リチャード社を 合併して 今の リチャードジノリ社になりました。(真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して 新しい 芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
お歳暮ギフトフェア (11/ 9~12/10) 末広がり 八客限定
ナポレオン・ボナパルト フランス皇帝ナポレオン1世 絶頂期へ
サン・ベルナール峠を越えるナポレオン、ダヴィッド、1800年。美術史博物館(ウィーン)所蔵。
まずは 第二次対仏大同盟に包囲を打破するため イタリアの再獲得を目指し ナポレオンはアルプス山脈を越えて 北イタリアに入る奇襲策をとった。1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。
12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでも フランス軍がオーストリア軍に大勝した。オーストリアは リュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し 対仏強硬派の失脚や国内問題に揺れるイギリスとも 1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは内政面でも 1804年には、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。
1804年5月国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた(フランス第一帝政)。戴冠式には、教皇ピウス7世も招いたが 一般的な教皇から王冠を戴く儀礼をとらず 政治の支配のもとに教会をおくという意志をもって 自ら王冠をかぶった。
ダヴィッド『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。
専制君主に対する不安から イギリスは オーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。
1805年10月、ネルソンのイギリス海軍に フランスはトラファルガー海戦にて完敗。陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領。ナポレオン1世の即位一周年の12月2日 フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 ナポレオンが完勝し 多額の賠償金と領土の割譲を受け 第三次対仏大同盟は崩壊。ちなみに凱旋門は この戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。
1806年10月 プロイセン中心の第四次対仏大同盟結成。ナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領。ロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧し ナポレオンは 兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化。神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、長い歴史を誇った神聖ローマ帝国は消滅。
1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出したが 産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買った。
ナポレオンは残る強敵ロシアに挑み 1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いに勝ったとはいうものの実際は痛み分けであった。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカを 愛人にした。
同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において ロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみ プロイセンは49%の領土を削って小国とし 多額の賠償金を支払わせた。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、王には弟ジェロームのヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。スウェーデン現王家は フランス陸軍元帥ベルナドット(後に ナポレオンに叛旗)を カール14世ヨハンとして この時就けた後裔。デンマークはイギリスへの対抗上 やむなくフランスと同盟を結んだ。ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。
続 ナポレオン・ボナパルト 絶頂期から帝国崩壊へ
俗名 インペログリーン
和名 インペロ・ヴェルデ
伊名 コンテッサ・ヴェルデ
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
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ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
有るのが不思議なエナメル手工芸・廃盤品
手塗りのエナメルは 漆の質感を 呈します。
ソーサー中央に描かれる 古代ローマ ポンペイ遺跡出土の壷は 5年前まで残った グリーンでは 割愛され 塗りも 吹き付けと 簡略化されておりました
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(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
グッチ・ジノリで コンテッサ スメラルドとして復活?
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某百貨店で インペログリーンを見たのですが アインさんで買った自分の持ってるものとは全然違うのでびっくりしました。
お答え
和名 コンテッサ・エメラルドのことですね。それは スプレイであっさり仕上げられた 美しい現代作です。重厚な 手塗りのインペログリーンとは 似て非なるものです。美しさの好みは 色々ですね。只 今作と違って 手間は10倍も違うのは確かです。
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生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
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イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでも カオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年ごろからリモージュのカオリンを 用いることで完璧な白磁を完成させております。
1771年 ナポリ窯が創設される。ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国 フェルディナンド3世治世下の(ナポリ窯)カポデモンテを 1834年 ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印Ginoriを施したものは正当です。ただここからが問題ですがジノリは ナポリを訪れる観光客への街道沿いのお土産屋からの依頼で モニュメント的なベースや キャンドルスタンドなどのモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginoriの施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる 中国製の清水焼に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。
1869年には リチャード社を 合併して 今の リチャードジノリ社になりました。(真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して 新しい 芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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