リチャードジノリ 【インペロロッソ】 ティーC/S 40%Off
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通常30%オフ 祝・体育の日記念フェア ( 本日~10/10) 40%Off
伊名 コンテッサロッサ(赤)
日本俗名 インペロタン(舌の色)
コンテッサとは伯爵夫人 伯爵の妻か 女性の伯爵を言う
伯爵夫人 フランス文学者で元東大総長の蓮實重彦/著 三島賞受賞
帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えていく。そこに容赦なく挑発を重ねる、従妹の蓬子や和製ルイーズ・ブルックスら魅力的な女たち。しかし背後には、開戦の足音が迫りつつあるらしい――。
戦争という名のエロス 早稲田大学教授・石原千秋
蓮實重彦「伯爵夫人」(新潮)は、全ページ「卑猥(ひわい)」な言葉で埋め尽くされていると言っても過言ではない、渾身(こんしん)のポルノ小説である。昭和16年、おそらく第一高等学校在学中で東京帝国大学法学部の受験準備をしている二朗が「伯爵夫人」にセックスに関する「感情教育」(この作品名は中に示されているし、年上の女性による恋愛の手ほどきはフランス文学の伝統だ)をされる物語だが、二朗は従妹の蓬子に関心を持っている。その蓬子は許嫁と交わり、もし妊娠したら二朗の子だということにすると言うのだ。「伯爵夫人」とは本物の華族ではなく、戦地で性の道具となるなどして生き抜くうちにそう呼ばれるようになったのだ。最後に米英に宣戦布告した記事が載った新聞が示される。
6月下旬に刊行されるや8月初め 既に4刷まで版を重ね、発行部数は3万5千部を数えた。蓮實さん自身は、「女性の方が真面目に読んでくださっている」
「血の伯爵夫人」
ジュリー・デルピー監督。本作でも監督・脚本・製作・音楽・主演を務めている。
ハンガリー王国の貴族である、史上名高い連続殺人者、吸血鬼伝説のモデルともなった「血の伯爵夫人」という異名を持つエリザベート・バートリーを描いた作品。
ゴダイヴァ夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬を差し控えた。
だが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。
この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として 驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令によってこれを認定した。
コンテッサ『伯爵夫人』
1967年 公開された喜劇映画で、チャールズ・チャップリン最後の監督作品。本作は チャップリン作品中、唯一のカラー映画である。また、チャップリンが自分の監督作品で主演をしなかったのは この「伯爵夫人」と、1923年公開の「巴里の女性」のみである。白髪のチャップリンは 端役でカメオ出演(スペシアルゲストのワン・シーン)しているが、これは彼がスクリーンに見せた最後の姿となった。アルフレッド・ヒッチコック監督の作品で一躍 スター女優となったティッピ・ヘドレン、そしてチャップリンの次男であるシドニー・アール・チャップリンも出演。
本作は興行的にも失敗し、批評家からの評価も得られなかった。しかし チャップリン自身が作曲した劇中の楽曲 "This Is My Song" は、ペトゥラ・クラークの歌唱によりヒット曲となり、制作費の赤字が穴埋めされることとなった。
粗筋
石油王の息子で駐サウジアラビア大使に任命されたオグデン・ミアーズ(マーロン・ブランド)は、世界旅行を終え、アメリカに帰国する船の上にいた。彼は寄港した香港で ロシア革命を逃れ 落ちぶれた亡命貴族 伯爵夫人ナターシャ(ソフィア・ローレン)に会う。彼女は売春行為を強要される香港での生活から逃れるため、オグデンの乗る船に忍び込みアメリカへの密航を図るが、オグデンに見つかってしまう。無口で聡明な彼女に心惹かれたオグデンは 同情し彼女を匿うことを承諾する。俳優たちのドタバタぶりが往年の彼の芝居にそっくりなのが微笑ましいロマンチック・コメディ。執事役のP・カーギルが“これぞ執事の鏡”とでも言うような見事な演技とギャグを見せる。ラストシーンは、オグデンがワシントンに向かわず、離婚調停中の妻の元を離れ(それは地位や財力を失うことを意味する)、ナターシャに会いにいく。 「この世で一番大切なものは愛だ!」
この重厚感 あふれ ジノリを代表するシリーズは 20年前ヨーロッパ最大の ジノリ代理店の 依頼を受けて マルクで仕込みました。欧州一番店に比べ アインに足らざる歴史と伝統を買いました。現在ではコスト面から制作困難な手工芸品を 創業26周年謝恩価格でご提供
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
「コンテッサ」(伯爵夫人)は、色彩の美しさを 最大限表現したシリーズです。緻密に計算されたデザインは、卓越したクラフトマンシップの手工芸から生まれます。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
有るのが不思議なエナメル手工芸・廃盤品
今や ドッチアミュージアムでしか 出会えません。
手塗りのエナメルは 深い漆の質感を 呈します。
ソーサー中央に描かれるは 古代ローマ ヴェスピオス火山噴火により 埋もれた ポンペイ遺跡より 出土の壷
本金は 古色が付いています。
風格ある古色は捨てがたいのですが 軽く磨くと すぐ元の金ピカになります。
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ソーサー絵 ポンペイ遺跡出土の壷 手工芸把手面
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ドッチア窯 金ロゴ
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「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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蓮實重彦「伯爵夫人」(新潮)は、全ページ「卑猥(ひわい)」な言葉で埋め尽くされていると言っても過言ではない、渾身(こんしん)のポルノ小説である。昭和16年、おそらく第一高等学校在学中で東京帝国大学法学部の受験準備をしている二朗が「伯爵夫人」にセックスに関する「感情教育」(この作品名は中に示されているし、年上の女性による恋愛の手ほどきはフランス文学の伝統だ)をされる物語だが、二朗は従妹の蓬子に関心を持っている。その蓬子は許嫁と交わり、もし妊娠したら二朗の子だということにすると言うのだ。「伯爵夫人」とは本物の華族ではなく、戦地で性の道具となるなどして生き抜くうちにそう呼ばれるようになったのだ。最後に米英に宣戦布告した記事が載った新聞が示される。
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「血の伯爵夫人」
ジュリー・デルピー監督。本作でも監督・脚本・製作・音楽・主演を務めている。
ハンガリー王国の貴族である、史上名高い連続殺人者、吸血鬼伝説のモデルともなった「血の伯爵夫人」という異名を持つエリザベート・バートリーを描いた作品。
ゴダイヴァ夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬を差し控えた。
だが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。
この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として 驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令によってこれを認定した。
コンテッサ『伯爵夫人』
1967年 公開された喜劇映画で、チャールズ・チャップリン最後の監督作品。本作は チャップリン作品中、唯一のカラー映画である。また、チャップリンが自分の監督作品で主演をしなかったのは この「伯爵夫人」と、1923年公開の「巴里の女性」のみである。白髪のチャップリンは 端役でカメオ出演(スペシアルゲストのワン・シーン)しているが、これは彼がスクリーンに見せた最後の姿となった。アルフレッド・ヒッチコック監督の作品で一躍 スター女優となったティッピ・ヘドレン、そしてチャップリンの次男であるシドニー・アール・チャップリンも出演。
本作は興行的にも失敗し、批評家からの評価も得られなかった。しかし チャップリン自身が作曲した劇中の楽曲 "This Is My Song" は、ペトゥラ・クラークの歌唱によりヒット曲となり、制作費の赤字が穴埋めされることとなった。
粗筋
石油王の息子で駐サウジアラビア大使に任命されたオグデン・ミアーズ(マーロン・ブランド)は、世界旅行を終え、アメリカに帰国する船の上にいた。彼は寄港した香港で ロシア革命を逃れ 落ちぶれた亡命貴族 伯爵夫人ナターシャ(ソフィア・ローレン)に会う。彼女は売春行為を強要される香港での生活から逃れるため、オグデンの乗る船に忍び込みアメリカへの密航を図るが、オグデンに見つかってしまう。無口で聡明な彼女に心惹かれたオグデンは 同情し彼女を匿うことを承諾する。俳優たちのドタバタぶりが往年の彼の芝居にそっくりなのが微笑ましいロマンチック・コメディ。執事役のP・カーギルが“これぞ執事の鏡”とでも言うような見事な演技とギャグを見せる。ラストシーンは、オグデンがワシントンに向かわず、離婚調停中の妻の元を離れ(それは地位や財力を失うことを意味する)、ナターシャに会いにいく。 「この世で一番大切なものは愛だ!」
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ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
「コンテッサ」(伯爵夫人)は、色彩の美しさを 最大限表現したシリーズです。緻密に計算されたデザインは、卓越したクラフトマンシップの手工芸から生まれます。
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
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今や ドッチアミュージアムでしか 出会えません。
手塗りのエナメルは 深い漆の質感を 呈します。
ソーサー中央に描かれるは 古代ローマ ヴェスピオス火山噴火により 埋もれた ポンペイ遺跡より 出土の壷
本金は 古色が付いています。
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「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
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