リチャードジノリ 【インペロロッソ】 コーヒーC/S 120cc 10%Off
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祝子供のひフェア ( 本日~ 5/05) 末広がり 八客限定
通常5%Off 祝子供のひフェア ( 本日~ 5/05) 10%Off
タンクィーンズ
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
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中間業者のマージンのいらないのもお安く売れる秘密の一つでした。
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ブランド箱 330円 ギフト包装用に正規代理店から購入
旧リチャードジノリで廃盤になりました。
新品は お熟成アインでしか買えません。
伊名 コンテッサロッサ(赤)
日本俗名 インペロタン(舌の色)
コンテッサとは伯爵夫人 伯爵の妻か 女性の伯爵を言う
伯爵夫人 フランス文学者で元東大総長の蓮實重彦/著 2016年 三島賞受賞
帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えていく。そこに容赦なく挑発を重ねる、従妹の蓬子や和製ルイーズ・ブルックスら魅力的な女たち。しかし背後には、開戦の足音が迫りつつあるらしい――。
ルイーズ・ブルックス
戦争という名のエロス 早稲田大学教授・石原千秋
蓮實重彦「伯爵夫人」(新潮)は、全ページ「卑猥(ひわい)」な言葉で埋め尽くされていると言っても過言ではない、渾身(こんしん)のポルノ小説である。昭和16年、おそらく第一高等学校在学中で東京帝国大学法学部の受験準備をしている二朗が「伯爵夫人」にセックスに関する「感情教育」(この作品名は中に示されているし、年上の女性による恋愛の手ほどきはフランス文学の伝統だ)をされる物語だが、二朗は従妹の蓬子に関心を持っている。その蓬子は許嫁と交わり、もし妊娠したら二朗の子だということにすると言うのだ。「伯爵夫人」とは本物の華族ではなく、戦地で性の道具となるなどして生き抜くうちにそう呼ばれるようになったのだ。最後に米英に宣戦布告した記事が載った新聞が示される。
6月下旬に刊行されるや8月初め 既に4刷まで版を重ね、発行部数は3万5千部を数えた。蓮實さん自身は、「女性の方が真面目に読んでくださっている」
「血の伯爵夫人」
ジュリー・デルピー監督。本作でも監督・脚本・製作・音楽・主演を務めている。
ハンガリー王国の貴族である、史上名高い連続殺人者、吸血鬼伝説のモデルともなった「血の伯爵夫人」という異名を持つエリザベート・バートリーを描いた作品。
史実
バートリ・エルジェーベトは 娘達の皮膚をナイフや針で切り裂いたり、性器や指を切断するといった行為に及び、また、内側に鋭い棘を生やした球形の狭い檻「鉄の処女」の中に娘達を入れて天井から吊るし、娘達が身動きするたびに傷付くのを見て楽しむこともあった。さらに身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたともいう。同性愛、多淫、黒魔術を行ったなどの証言もあった。被害者の数は、エルジェーベト本人の記録では650人。1611年1月、トゥルゾーが裁判官を務める裁判所は、エルジェーベトの共犯者として従僕を斬首刑に処し、2人の女中を火刑に処したが、エルジェーベト本人は高貴な家系であるため死刑を免れ、扉と窓を漆喰で塗り塞いだチェイテ城の自身の寝室に生涯幽閉されることが決まった。その屋上には、彼女が本来であれば死刑に処せられるべき重罪人であることを示すために絞首台が設置されたという。
わずかに1日1回食物を差し入れるための小窓だけを残し、扉も窓もすべて厳重に塗り塞がれた暗黒の寝室の中で、彼女はなお3年半にわたって生き長らえた。そして、1614年8月21日、食物の差し入れ用の小窓から寝室をのぞいた監視係の兵士により、彼女の死亡が確認された。彼女の所領は子供達が相続することを許されている。
エルジェーベト自身は一切の犯行を否認している。ハプスブルグ王家に絶えず反旗を翻すハンガリーのマジャール貴族 その権力闘争に係わる思惑により捜査が進められ、証言が誇張された可能性はあるが、事実無根と考える研究者は殆どいない。
(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族が 血を購って勝ち取った。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場に遡ったと理解しました。)
ゴダイヴァ伯爵夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬を差し控えた。
だが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。
この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
ジョン・コリア作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として 驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令によってこれを認定した。
コンテッサ『伯爵夫人のメイド』
幼い頃の性的なトラウマが原因で、ミリー(カリナ・ガンビーア)は極度の性的渇望に苦しんでいた。手のつけられなくなった彼女を、姉の伯爵婦人イディ・シュレイヤー(パメラ・スタンフォード)は屋敷の中に閉じ込め、自分の愛人たちを次々とあてがっては、自らもその光景に欲情するのであった。実はイディにとって義理の大富豪の父親は既に亡く、「実の娘であるミリーの21歳の誕生日に、彼女に財産のすべてを相続する」という遺書を知ったイディが悪徳医師バーンズと共謀し、数年に亘ってミリーに薬物を打ち続け、ニンフォマニア(色情症)にしてしまったのだ。
本作は興行的にも失敗し、批評家からの評価も得られなかった。しかし チャップリン自身が作曲した劇中の楽曲 "This Is My Song" は、ペトゥラ・クラークの歌唱によりヒット曲となり、制作費の赤字が穴埋めされることとなった。
粗筋
石油王の息子で駐サウジアラビア大使に任命されたオグデン・ミアーズ(マーロン・ブランド)は、世界旅行を終え、アメリカに帰国する船の上にいた。彼は寄港した香港で ロシア革命を逃れ 落ちぶれた亡命貴族 伯爵夫人ナターシャ(ソフィア・ローレン)に会う。彼女は売春行為を強要される香港での生活から逃れるため、オグデンの乗る船に忍び込みアメリカへの密航を図るが、オグデンに見つかってしまう。無口で聡明な彼女に心惹かれたオグデンは 同情し彼女を匿うことを承諾する。俳優たちのドタバタぶりが往年の彼の芝居にそっくりなのが微笑ましいロマンチック・コメディ。執事役のP・カーギルが“これぞ執事の鏡”とでも言うような見事な演技とギャグを見せる。ラストシーンは、オグデンがワシントンに向かわず、離婚調停中の妻の元を離れ(それは地位や財力を失うことを意味する)、ナターシャに会いにいく。 「この世で一番大切なものは愛だ!」
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
ルイ・ナポレオン ナポレオン3世へ
1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトの息子として生まれるが、1815年にナポレオンが反フランス連合軍に敗れると、フランスの統治権を握ったブルボン家の復古王政によって国を追われ、亡命生活をへ。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国許されず。ボナパルト家の帝政復古を夢見て国外から、1836年にストラスブール、1840年にブローニュで武装蜂起するも失敗し 終身刑に処されてアム要塞に投獄。5年半に及ぶ獄中生活は 政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』ので労働者階級の保護を主張し、貧困層に新ボナパルティズムをアピールした。1846年にアム要塞を脱獄する。1848年革命で7月王政が倒されて第二共和政が樹立されると、フランスへ帰国して大統領選挙に出馬し、王党派の消極的な支持や「ナポレオン」の名の高い知名度によって当選を果たした。しかし第二共和政の大統領の権限は弱く、共和派、王党派が牛耳る国民議会によって主導権を奪われた。1851年に国民議会に対するクーデターを起こし、大統領権限を強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立。1852年 国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗る。治世の前期の「権威帝政-強圧的統治」を、1860年代には「自由帝政-自由主義的統治」に転換した。内政ではサン=シモン主義を背景に金融改革を起こし 産業融資を行う近代的金融業の確立に努め、鉄道建設に投資を振り向けさせた。またパリ改造によって現代のパリの基礎を築いた。一方外交面ではクリミア戦争でイギリスと同盟し ロシア帝国に勝利したことでヨーロッパ国際政治のバランサー的存在となった。イタリア統一戦争ではサルデーニャ王国とともにオーストリア帝国と戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけた。非ヨーロッパ諸国には 帝国主義政策をもって、アフリカやアジアの諸国を フランス植民地に組み込んだ。その治世下にフランス植民地帝国の領土を3倍に拡張した。ナポレオン3世の権力は これら外交的成功によって支えられていた。メキシコ出兵の失敗で国内的地位を弱めた。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセン王国と対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン鉄血宰相ビスマルク(ドイツ統一の立役者)はエムス電報事件でフランスとの対立を煽り、激昂に駆られたフランス国民の支持を背景にフランスは戦争へ突入する羽目になり ドイツ諸邦の参戦を恐れたフランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦は自発的にプロイセン側に立って参戦した(普仏戦争:プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もあるが独仏戦争が正しい)。ドイツ首相ビスマルク野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは、ドイツ国境に侵攻したフランス軍を叩きのめした。防戦一方となったフランス軍は9月2日にセダンの戦いで包囲に置かれ、10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世自身がプロイセン軍の捕虜になった。
セダンで降伏するナポレオン3世(中央)
求心力を決定的に落としたパリではクーデターが発生し 第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した。プロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデターを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した。
皇后はスペイン貴族のウジェニー。彼女との間の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けたが 1879年に南アフリカのズールー戦争に従軍し、戦死した。ルイに子はなく フランス皇位請求者の地位はナポレオン3世の従弟ナポレオン公の子孫に移り、現在に至る。
本金は 古色が付いています。
風格ある古色は捨てがたいのですが 軽く磨くと すぐ元の金ピカになります。
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ソーサー絵 ポンペイ遺跡出土の壷 取っ手面
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ドッチア窯金ロゴ
「洋食器ーそれは交響楽(オーケストラ)です。」 詳しくは コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
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伯爵夫人 フランス文学者で元東大総長の蓮實重彦/著 2016年 三島賞受賞
帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えていく。そこに容赦なく挑発を重ねる、従妹の蓬子や和製ルイーズ・ブルックスら魅力的な女たち。しかし背後には、開戦の足音が迫りつつあるらしい――。
ルイーズ・ブルックス
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蓮實重彦「伯爵夫人」(新潮)は、全ページ「卑猥(ひわい)」な言葉で埋め尽くされていると言っても過言ではない、渾身(こんしん)のポルノ小説である。昭和16年、おそらく第一高等学校在学中で東京帝国大学法学部の受験準備をしている二朗が「伯爵夫人」にセックスに関する「感情教育」(この作品名は中に示されているし、年上の女性による恋愛の手ほどきはフランス文学の伝統だ)をされる物語だが、二朗は従妹の蓬子に関心を持っている。その蓬子は許嫁と交わり、もし妊娠したら二朗の子だということにすると言うのだ。「伯爵夫人」とは本物の華族ではなく、戦地で性の道具となるなどして生き抜くうちにそう呼ばれるようになったのだ。最後に米英に宣戦布告した記事が載った新聞が示される。
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「血の伯爵夫人」
ジュリー・デルピー監督。本作でも監督・脚本・製作・音楽・主演を務めている。
ハンガリー王国の貴族である、史上名高い連続殺人者、吸血鬼伝説のモデルともなった「血の伯爵夫人」という異名を持つエリザベート・バートリーを描いた作品。
史実
バートリ・エルジェーベトは 娘達の皮膚をナイフや針で切り裂いたり、性器や指を切断するといった行為に及び、また、内側に鋭い棘を生やした球形の狭い檻「鉄の処女」の中に娘達を入れて天井から吊るし、娘達が身動きするたびに傷付くのを見て楽しむこともあった。さらに身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたともいう。同性愛、多淫、黒魔術を行ったなどの証言もあった。被害者の数は、エルジェーベト本人の記録では650人。1611年1月、トゥルゾーが裁判官を務める裁判所は、エルジェーベトの共犯者として従僕を斬首刑に処し、2人の女中を火刑に処したが、エルジェーベト本人は高貴な家系であるため死刑を免れ、扉と窓を漆喰で塗り塞いだチェイテ城の自身の寝室に生涯幽閉されることが決まった。その屋上には、彼女が本来であれば死刑に処せられるべき重罪人であることを示すために絞首台が設置されたという。
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エルジェーベト自身は一切の犯行を否認している。ハプスブルグ王家に絶えず反旗を翻すハンガリーのマジャール貴族 その権力闘争に係わる思惑により捜査が進められ、証言が誇張された可能性はあるが、事実無根と考える研究者は殆どいない。
(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族が 血を購って勝ち取った。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場に遡ったと理解しました。)
ゴダイヴァ伯爵夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬を差し控えた。
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この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
ジョン・コリア作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として 驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令によってこれを認定した。
コンテッサ『伯爵夫人のメイド』
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本作は興行的にも失敗し、批評家からの評価も得られなかった。しかし チャップリン自身が作曲した劇中の楽曲 "This Is My Song" は、ペトゥラ・クラークの歌唱によりヒット曲となり、制作費の赤字が穴埋めされることとなった。
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ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
ルイ・ナポレオン ナポレオン3世へ
1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトの息子として生まれるが、1815年にナポレオンが反フランス連合軍に敗れると、フランスの統治権を握ったブルボン家の復古王政によって国を追われ、亡命生活をへ。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国許されず。ボナパルト家の帝政復古を夢見て国外から、1836年にストラスブール、1840年にブローニュで武装蜂起するも失敗し 終身刑に処されてアム要塞に投獄。5年半に及ぶ獄中生活は 政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』ので労働者階級の保護を主張し、貧困層に新ボナパルティズムをアピールした。1846年にアム要塞を脱獄する。1848年革命で7月王政が倒されて第二共和政が樹立されると、フランスへ帰国して大統領選挙に出馬し、王党派の消極的な支持や「ナポレオン」の名の高い知名度によって当選を果たした。しかし第二共和政の大統領の権限は弱く、共和派、王党派が牛耳る国民議会によって主導権を奪われた。1851年に国民議会に対するクーデターを起こし、大統領権限を強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立。1852年 国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗る。治世の前期の「権威帝政-強圧的統治」を、1860年代には「自由帝政-自由主義的統治」に転換した。内政ではサン=シモン主義を背景に金融改革を起こし 産業融資を行う近代的金融業の確立に努め、鉄道建設に投資を振り向けさせた。またパリ改造によって現代のパリの基礎を築いた。一方外交面ではクリミア戦争でイギリスと同盟し ロシア帝国に勝利したことでヨーロッパ国際政治のバランサー的存在となった。イタリア統一戦争ではサルデーニャ王国とともにオーストリア帝国と戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけた。非ヨーロッパ諸国には 帝国主義政策をもって、アフリカやアジアの諸国を フランス植民地に組み込んだ。その治世下にフランス植民地帝国の領土を3倍に拡張した。ナポレオン3世の権力は これら外交的成功によって支えられていた。メキシコ出兵の失敗で国内的地位を弱めた。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセン王国と対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン鉄血宰相ビスマルク(ドイツ統一の立役者)はエムス電報事件でフランスとの対立を煽り、激昂に駆られたフランス国民の支持を背景にフランスは戦争へ突入する羽目になり ドイツ諸邦の参戦を恐れたフランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦は自発的にプロイセン側に立って参戦した(普仏戦争:プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もあるが独仏戦争が正しい)。ドイツ首相ビスマルク野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは、ドイツ国境に侵攻したフランス軍を叩きのめした。防戦一方となったフランス軍は9月2日にセダンの戦いで包囲に置かれ、10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世自身がプロイセン軍の捕虜になった。
セダンで降伏するナポレオン3世(中央)
求心力を決定的に落としたパリではクーデターが発生し 第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した。プロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデターを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した。
皇后はスペイン貴族のウジェニー。彼女との間の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けたが 1879年に南アフリカのズールー戦争に従軍し、戦死した。ルイに子はなく フランス皇位請求者の地位はナポレオン3世の従弟ナポレオン公の子孫に移り、現在に至る。
本金は 古色が付いています。
風格ある古色は捨てがたいのですが 軽く磨くと すぐ元の金ピカになります。
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ドッチア窯金ロゴ
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イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
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