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フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
ヴィンターハルター(1805年―1873年) 『春』 フローラ
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。ラテン文学史上は「黄金の時代」の掉尾を飾る詩人とされる。オウィディウスの詩作品は後期古代から中世にかけての時代に多くの詩人に模倣され、西洋美術と西洋文学に絶大な影響を与えた。ウェルギリウスやホラティウスよりは一世代若い世代に属する。彼らの時代から下ること数十年後の修辞学者クインティリアヌスはオウィディウスを最後のラテン恋愛悲劇作家と評した。
紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、西暦8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「ローマを去るオウィディウス」(1838年)
トミスは黒海に面した港町で、当時はローマの勢力圏が及ぶ範囲の端になっていた。この配流は、一切の法に基づく裁判が行われず、皇帝個人の独断的な干渉により決まった。元老院による助言もなかった。この事件は以後の作品のすべてに決定的な影響を及ぼす。オウィディウスは追放の原因を 「一つの詩と一つの過ち」と表現し、「わが罪は殺人より重く」「誰かを傷つけること、詩よりもはなはだしい」と詠んだ。皇帝の孫である小ユリアとユッルス・アントニウスもまた、オウィディウスの配流と時をほぼ同じくして配流されている。小ユリアの夫、ルキウス・アエミリウス・パウルスが皇帝に対する謀議に加わったとして誅殺されたが、オウィディウスはこの陰謀を知っていて庇ったのかもしれない。アウグストゥス帝により紀元前18年に制定されたユリア法は獣姦や姦通など「不自然な天理に背く行為」を規定しこれに刑罰を設定した法であるが、出生率を上げるために一夫一婦制を推進し、ローマ人の意識に新風を吹き込むことでローマの風俗を改良しようとするものであった。オウィディウスの『恋の技法』はユリア法に照らして重い姦通となる行為を扱っている。皇帝が定めた風紀を破壊しかねない「恋のてくだ」をはじめとする彼の抒情詩ゆえに、彼は追放の憂き目にあったのかもしれない。しかしながら、この作品の公表(紀元前1年)から追放(西暦8年)まで、長い時間が経過していることに鑑みると、アウグストゥスは何かもっと個人的な理由でオウィディウスの追放を決心し、風紀紊乱は口実に過ぎないのではないかという説もある。当時自由に流布していたプロペルティウス、ティブッルス、ホラティウスの作品の中には、下品さという点で「恋のてくだ」とそう変わらないものが多数あるという事実によってもこの説は補強される。オウィディウスの追放の原因がはっきりしないため、現代に至るまで幾多の学者たちが終わりのない論争を続けることとなった。中にはオウィディウスがローマを追放されたことは一度もなく、追放後の作品のすべては詩人の豊かな想像力の産物である、という説まである。
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
フランソワ・ジェラール『ヒュラスとニンフ』
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
二つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは マイセンジャパンさんが 日本向けに マイセン社の 二種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 三つ花 四つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ピカピカの 新品です。現品 即納
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
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3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い
難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグ
のハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋
作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。)
アウクスブルク水路 こんな磁器街道だったのでしょうか?
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後
に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-2 ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「ローマを去るオウィディウス」(1838年)
トミスは黒海に面した港町で、当時はローマの勢力圏が及ぶ範囲の端になっていた。この配流は、一切の法に基づく裁判が行われず、皇帝個人の独断的な干渉により決まった。元老院による助言もなかった。この事件は以後の作品のすべてに決定的な影響を及ぼす。オウィディウスは追放の原因を 「一つの詩と一つの過ち」と表現し、「わが罪は殺人より重く」「誰かを傷つけること、詩よりもはなはだしい」と詠んだ。皇帝の孫である小ユリアとユッルス・アントニウスもまた、オウィディウスの配流と時をほぼ同じくして配流されている。小ユリアの夫、ルキウス・アエミリウス・パウルスが皇帝に対する謀議に加わったとして誅殺されたが、オウィディウスはこの陰謀を知っていて庇ったのかもしれない。アウグストゥス帝により紀元前18年に制定されたユリア法は獣姦や姦通など「不自然な天理に背く行為」を規定しこれに刑罰を設定した法であるが、出生率を上げるために一夫一婦制を推進し、ローマ人の意識に新風を吹き込むことでローマの風俗を改良しようとするものであった。オウィディウスの『恋の技法』はユリア法に照らして重い姦通となる行為を扱っている。皇帝が定めた風紀を破壊しかねない「恋のてくだ」をはじめとする彼の抒情詩ゆえに、彼は追放の憂き目にあったのかもしれない。しかしながら、この作品の公表(紀元前1年)から追放(西暦8年)まで、長い時間が経過していることに鑑みると、アウグストゥスは何かもっと個人的な理由でオウィディウスの追放を決心し、風紀紊乱は口実に過ぎないのではないかという説もある。当時自由に流布していたプロペルティウス、ティブッルス、ホラティウスの作品の中には、下品さという点で「恋のてくだ」とそう変わらないものが多数あるという事実によってもこの説は補強される。オウィディウスの追放の原因がはっきりしないため、現代に至るまで幾多の学者たちが終わりのない論争を続けることとなった。中にはオウィディウスがローマを追放されたことは一度もなく、追放後の作品のすべては詩人の豊かな想像力の産物である、という説まである。
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2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い
難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
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に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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