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インドの花 ミス・インターナショナル インド代表
シノワズリ
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。
柿右衛門写しのシノワズリ?
オランダの東インド会社によってもたらされた白磁に 絵付けされている異郷の花の絵は 多分インドの花に違いないとして 柿右衛門描くところの日本の花を インドの花-343310と名づけました。3で始まる柄番号は シノワズリの分類でした。しかし 多彩色を考案した頃には 柿右衛門と判っていたらしく 柄番号451110と 4で始まるジャポネズリに分類しており
インドの花 多彩色 451110 アンティック
高値を呼ぶ 柿右衛門名に変更したかったのですが すでに東洋風散花文 インドの花は ブランドとして知名度高く 定着しておりましたので 名称は 継続されました。 初期の シノワズリ分類の不明を 糊塗するにも好都合でしたのでしょう。何せ 美への眼力自慢の アウグスト強襲王の柿右衛門贔屓が 柿右衛門と見抜けなかったのですから。シノワズリ ジャポネズリを確立したヘロルトも アウグスト強襲王とともに 同じ轍を踏んでおります。
柿右衛門と判ってからも インドの花としてペインターたちは 時につれ 多くの バリエーションを 生み出し 王達を楽しませました。他窯でも たくさん写され ヨーロッパ中に 大流行しました。第1次世界大戦末期 1918年に ザクセン王国は 瓦解するのですが 国立窯となっても この人気作品は 1730年ごろ以来 約3世紀 折あるごとに 作り続けられ 復刻というより 「偉大なマンネリズム」 の代表作の1つとなっております。
3人の天才ヨハンによる伝統の 復刻版
1)ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによる ヨーロッパ 初の ポースレーン
2)ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト原画
3)ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型 エンツゥイステッド・ハンドル
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ソーサー絵・カップ正面 反対面 把手面
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3人の天才ヨハン-5
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転
18世紀、中国の泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
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マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ G・アーノルド作 金箔額装磁板画 当店所蔵
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
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