マイセン 【イヤープレート】 1990年・竜宮城 40%Off
マイセン 【イヤープレート】 1990年・竜宮城 40%Off
祝子供の日フェア ( 本日~ 5/ 5) 2枚限定
通常30%Off 祝子供の日フェア ( 本日~ 5/ 5) 40%Off
『浦島太郎』
竜宮城
むかしむかし浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ
乙姫様のごちそうに 鯛やひらめの舞踊り ただ珍しく面白く 月日のたつのも夢のうち
遊びにあきて気がついて おいとまごいも そこそこに帰る途中の楽しみは みやげにもらった玉手箱
山本芳翠『浦島図』手箱を手に故郷に帰還する浦島太郎
帰って見れば こはいかに 元居た家も村も無く みちに行きあう人々は 顔も知らない者ばかり
心細さに蓋取れば あけて悔しき玉手箱 中からぱっと白けむり たちまち太郎はおじいさん
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
年号は裏面に有りますので 飾り絵皿としても 楽しんでいただけます。
1972年から 現在のロゴになりました。
もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時はよく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの過去の新品上代しか 参考はありません。
貴重な 印判手(版画染付)
φ26cm
マイセン 【イヤープレート】 1990年・竜宮城 40%Off のお求めはコチラ
マイセン 【 イヤープレート 】 祝子供の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-1
各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどが捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通りの知識を 吸収すると,周りの
反対を押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒ(フリードリヒ大王の祖父)の耳に
入ってしまいました。王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン
領へ逃亡しました。手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ
出兵しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガ
ーが 有望な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。喧嘩腰のプロイセンに
対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分の臣民であるとの主張をし
大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師-1 」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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むかしむかし浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ
乙姫様のごちそうに 鯛やひらめの舞踊り ただ珍しく面白く 月日のたつのも夢のうち
遊びにあきて気がついて おいとまごいも そこそこに帰る途中の楽しみは みやげにもらった玉手箱
山本芳翠『浦島図』手箱を手に故郷に帰還する浦島太郎
帰って見れば こはいかに 元居た家も村も無く みちに行きあう人々は 顔も知らない者ばかり
心細さに蓋取れば あけて悔しき玉手箱 中からぱっと白けむり たちまち太郎はおじいさん
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
年号は裏面に有りますので 飾り絵皿としても 楽しんでいただけます。
1972年から 現在のロゴになりました。
もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時はよく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの過去の新品上代しか 参考はありません。
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錬金術師-1
各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどが捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通りの知識を 吸収すると,周りの
反対を押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒ(フリードリヒ大王の祖父)の耳に
入ってしまいました。王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン
領へ逃亡しました。手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ
出兵しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガ
ーが 有望な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。喧嘩腰のプロイセンに
対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分の臣民であるとの主張をし
大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。・・・・・・・
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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